私、「神舞を真摯に稽古して、驕り高ぶることなく舞台をつとめていたら、必要なものや機会は与えられ、運もよくなっていく」と、考えております。これまで、舞台出演のための資金に困ったことはありません。もし困るようになったら、それは舞う資格を失ったということだと考えることにしております。
本日、紫水堂さまにて、舞刀をふた振り購入いたしました。良い刀に出会えました。
上の模造刀は行列(練り歩き)で着装いたします。下の居合刀は剣舞で振り抜き、樋鳴り(風斬り音)を起こして魔・邪を祓います。さきほど、試し振りをさせていただいたら「ヒュオッ」という綺麗な音がしました。
少し前に、「あのとき観た刀を振る姿が最高でした。また四方斬りをやってください」という要望がありました。本気で振っても刀身が折れない刀を使いたいと思ってから、わずか数日で居合刀を手にしております。これは、刀を手に舞うことを許されているというか、奨められているということだと解釈しております。
「求められているのかどうか?」ということは、とても大切なことだと思います。我が強くて嫌われていると資金不足に陥り、みすぼらしい状態になります。一方、謙虚で好かれていると資金が潤沢になり、華美な状態になります。何の知識もなくても、求められて舞台に立っているかどうかは、一目でわかるものです。
本物の舞姿は、美しいのです。
吉田流巫女神楽「劔」の相舞と「胡蝶吾妻」 pic.twitter.com/Q6hV7vhSc3
— 吉川八幡神社 (@hachimanshrine) August 2, 2021
剣を手に舞うのは、覚悟がいる振る舞いだと思います。自分に問題があれば、魔・邪を斬るどころか、自分で自分を斬ることになります。運が悪くなり、うまくいかなくなるということです。そうなってからどうにかしようとしても、どうにもならないものです。怠ることなくつとめたいと思います。
求められていないのに、我で押しきって舞台に立つと、その結果は悲惨なものになります。本物と同じ舞台に偽物の状態で立ったときは特に、です。ジャイアンリサイタルは、観客にとっては苦痛でしかありません。まして、自分をすごいと勘違いしている人の芸ならなおさらです。
— 佐々木 義春 (@10311031103131) August 1, 2021
やらかしている本人は、観客が苦しんでいることに気づきません。関心が自分自身に向いているためです。
— 佐々木 義春 (@10311031103131) August 1, 2021
長々と見苦しいものを見せられた観客が、その後どのような行動をとるかはすぐにわかると思います。以降の鑑賞を拒否するのです。どこにも、誰からも、呼ばれなくなります。求められなくなれば、そこで終わりです。思いあがりの代償は、とても高くつくのです。
刀を眺めながら、秋の舞で風斬り音を響かせたいという思いを強くしております。