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浮世絵と文楽人形。二つとも静のポーズによって成り立つ。人形はさながら人間のように動くものであるが、実は人間とは違った抽象的な「身体の線」を舞台に描くものであり、その意味では、浮世絵と同じく静的な線の連続に過ぎない。武原はんの絵と人形からの摂取による「身体の線」は、この静的なポーズの連続であり、身体は外面的な「線」によってのみ成り立っている。そこでは人間の感情、心の動きといったものは全て排除されている。形それ自体の、身体の線それ自体のもつ美しさ、ほとんど奇形的といってもいい美しさこそ、このひとの独自の世界といっていいだろう。
絵と人形に近づこうとしたときに、彼女は無意識のうちに、舞踊の身体のもっとも無機的な世界に近づいたのである。武原はんの舞の極致は、あらゆるものを排除して、その「身体の線」の美しさに化した「身体」をつくることであった。
「線」の美と化した「身体」。
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裾をひいた芸者風の武原はんの姿は実に美しかった。ことに「あと二つはさしづめあなたとわたし」というあたりの、ほのかに唇の端にひろがる笑み、愛嬌の翳は、いいようのない美しさであった。しかしそれだけだと私は思った。とぎすまされたような美しさ、一つのポーズから一つのポーズへと休みなく、ほんの少しずつ、目に見えないくらいの速度で動いていく動きの繊細微妙な味わい。しかしそれはそれだけのものであり、絵の連続でしかない。どれほどの名画であろうと絵は舞踊ではない。そう思った。そう思ったから私はあれほど夢中になって追いかけていた武原はんから遠ざかることになった。
そして32年の歳月がたった。ある日、突然目の前で、目の鱗が落ちるようなことが起こった。
平成元年11月、このとき彼女は87歳、四人の出演者の中で最高齢であった。この日の「月」は、私の見た「月」の中では最高の出来映えであった。
歌舞伎座の広い舞台の下手に立って、扇で上手をさした立ち姿、客席に真横に上手を向いた彼女の姿は、さながら周囲に人なきが如く、なにものかに、なにかを問いかけるような姿であった。そこにはむろん、鏡も、絵も、人形もなく、満員の観客でさえ眼中にはなかった。人間の裸身がむき出しであり、しかもその裸の人間は、この世をこえるものに、ひたすら何かを問い、祈るものの姿であった。
87歳にして、人間はかくの如くの境地にいたるか。32年前の美しさにくらべれば、さすがに衰えたというべきだろう。それは私も否定しない。しかし32年前には、その美しさは「身体の線」にとどまっていた。32年目の今日、「その「身体の線」は、老女の身体を衣装に包んで、やわやわと柔らかく、いまにも倒れそうなおぼつかなさである。
にもかかわらず私は32年前よりも今日の方がはるかに美しいと思った。なぜならばその美しさは「身体の線」をこえて、歌舞伎座の舞台にひろがる精神的な美しさだったからである。彼女はいまでもフォルムの美しさということにこだわっているだろう。しかしそういう当人の意識をはるかにこえて、フォルムがここでは消えている。というよりはフォルムが「身体の線」をこえて、老境の心のひだのフォルムになっているからである。いまやフォルムも、彼女には無関係である。いや、その無関係であるが故に、そういうものをこえた渾然一体となって、そこに立っている。だから裸身に見え、その裸身は世にも美しいものであった。
そこに立つ彼女自身の身体そのものが、美しさなぞ実はどうでもいいことだと語っている。
武原はんは実は近代的な芸術家であり、その舞踊の方法も近代的なものである。しかし32年という長い歳月を経て、その近代性もついには古典の中へ吸収されてしまった。身体の線をこえて、一人の人間の心境があらわになるというような方法こそ、実は日本の舞踊の古典が求めているものに他ならないからでらる。
美しいフォルムは、その美しさをこえ、フォルムをこえた時に、その舞手の「身体」の深奥に及んで、人生の生きることの意味を、はじめて人に示したのである。
引用ここまで
こちらのサイトで、一代記がまとめてあります。
流派に属することなく身ひとつで舞いました。きものの様式美を体現し、独自の舞へと昇華されました。気品に満ちた舞姿は『動く錦絵~日本女性としての姿美の極致』であったと思います。私の思う舞の理想形を体現されてありました。
コツコツと稽古を積み重ね続けることの尊さ。私も、大蛇舞の稽古を続けていきたいと思います。