瞬間に消える芸術~舞の真の素晴らしさは、写真やビデオにはうつらない。

日本の舞踊 渡辺保著 岩波新書 9Pより

同じように瞬間に消える芸術でも、音楽ならば楽譜がのこる。芝居ならば戯曲がのこる。舞踊の場合は、せいぜい不完全なノート、舞踊譜、あいまいな舞踊台本と称するもの(実際舞踊台本と称するものほど不可解なものはない。そこには唄の歌詞か、作家のイメージが羅列されているだけであって、読んだだけではなにがなんだか全く理解することができない)しかのこらない。すなわちその瞬間限りのものであり、音楽、演劇に比べてさえ、消え方が徹底している。いや写真やビデオがあるじゃないかという人がいるかもしれない。しかし舞踊のなかには、その真の素晴らしさがフィルムにうつらないことが多い。

たとえば、こんな例がある。ある時、私は、吉越立雄という能のすぐれた写真家と一緒に、友枝喜久夫の舞を見ていた。吉越立雄の肩からは愛用のカメラがぶら下がっている。友枝喜久夫の名人芸を見ながら私はいつ吉越立雄がシャッターを切るのかと思って見ていた。ところが吉越立雄はカメラを手にとろうともしない。ついに友枝喜久夫の舞が終わってしまった。憮然とした私はなぜ写真をとらなかったのかときいたらば、吉越立雄はこともなげにこういった。

「あれは、写らないんだよ」

友枝喜久夫の素晴らしい写真を残している吉越立雄にしてかくの如し。写真やビデオは立派な資料ではあるが、真の素晴らしさはフィルムにとらえられないことがある。

したがってすぐれた舞踊だと人にいわれても、その言葉を検証することがむずかしい。舞踊を語る言葉が成り立ちにくい原因の全てがそこにあるとはいわないが、これも原因の一つには違いない。

引用ここまで

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大蛇面

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大蛇面

大蛇面ひとつとっても、その素晴らしさは写真やビデオでは伝わりません。大蛇の動きにいたっては、現場でしか体感はできません。文字通り、その瞬間・瞬間に消えてしまいます。それは、舞う側の舞人にとっても同じです。しかし、記憶には鮮烈に残ります。

人生で何か行き詰ったとき、鮮烈な舞の記憶によって救われることがあります。写真やビデオにはうつらない何らかの力が、土壇場のところで救いあげてくれるのです。舞を観に行くことを、私が強く勧める理由です。この現実世界を、舞うように生きていきましょう。