血のにじむような厳しい稽古だけがすべて

日本の舞踊 渡辺保岩波文庫 163Pより

はじめ、私は井上八千代の舞を全く理解することができなかった。どこがいいのかさっぱりわからなかった。

武原はんの、あの姿のとろけるような美しさがあるわけでもないし、三津五郎の、あのわくわくするような人物描写、踊の面白さがあるわけでもない。

ただ、無表情で、人形のような、ぎくしゃくして、一見余韻も詩情もないように見える機械的な硬い動きの繰り返しにしか思えなかった。

40年近い歳月のたった今も、私にはあの日の井上八千代の舞台があざやかに目にうかぶ。しかしその時には、なにがいいのかさっぱりわからなかったし、この日の印象がかくも長い間私の心にのこることなぞ、予想することさえできなかった。今でもなぜ、あの日のことがこれほど強烈に心にのこっているのかを説明することができない。

ただわずかにいえることは、その日の井上八千代の一つ一つの動きが、私がそれまで見てきた日本の舞踊、いや全ゆる舞踊のなかで全く見たことがないほど、キビキビした力強さをもっていたということだけである。

今でも、いきなり井上八千代を見て、その舞のよさが即座にはっきりわかる人はいないのではないだろうか。

なぜ私がそう思うかといえば、井上流の舞というものが、二つの禁忌によって、他の舞踊と全く違うものをもっているからであり、井上八千代は、その井上流の舞を深く極めることによって、ほとんど目で見ただけではわからないもの、目に見えないものを表現しているからである。

二つの禁忌とは、一つは、顔で表情をしてはいけないこと。もう一つは、動きをできるだけ制約して、あまり動いてはいけないこと、である。

井上流の舞は、ただ見ただけではわからない。目に見えるもの、ただ見ただけでわかるものを拒否しているからである。

二つの禁忌……表情をしてはいけない、動きを少なくしなければならない……は、ともに、人間の身体の表面にあらわれる感情を拒否している。

なぜ、そうしなければならないのか。

そうすることによって、実は目では直接見ることができないもの、すなわち精神的なもの目を向けさせるためである。

人間の感情は、直接人の目には見えない。感情をあらわにするといった時に、私たちは顔や身体にあらわれた感情をたまたま見ているにすぎない。日常では、他人がなにを考えて、なにを感じているかなぞ、推測する以外に知りようがない。

井上流の舞は、人間の表情を一度拒否することによって、かえって、より深く、より永遠の精神的なものに観客の目を向けさせようとしている。

三代目八千代の高弟松本佐多は、こういっている。

「動かんようにして舞ふ。つまり表現を内省して、出来るだけ描写(ふりとて)を要約(つっめるように)するのどす」

「描写」の「ふりとて」は、振と手である。あの二つの禁忌の目的は、ここにこそある。

「表現」を「内省」にむかわせることが目的だったのである。

あの一つ一つの、節約され、きりつめられた動きには、おそろしい瞬発力とそれを支えるものがかくされていたのだ。静止した姿に、動きがあり、その動きが造型力となっていたのだ。フォルムが美しいかどうかが問題ではない。リアルな描写であるか、あるいはドラマティックなものであるかも問題ではない。問題なのはこの力である。この力こそ、現にそこにある、目に見える身体の向こうに数多くの身体の動きを想像させ、身体を二重三重ののものとしていた。その力が歌舞伎座の広い空間を切りさいたのである。

井上八千代の稽古は、彼女自身が若い頃にうけた稽古も言語を絶した厳しさであったらしいし、井上流の師匠としての、彼女の門弟に対する稽古も厳しいものであった。厳しい稽古の目的は、この「今舞うてるやろ、そしたらそれだけや」、「舞うててものを考えますかいな」という境地に達することであった。心を無くすことなぞ自分からはできない。それならばどうやって心を捨てるのか。稽古を繰り返し、稽古に没入するしかないという。その稽古、血のにじむような厳しい稽古だけが、彼女にとっては全てだったからである。

引用ここまで

 

YouTubeで、井上八千代さまの舞を観てみてください。おそらく、なにがいいのかほんとにわからないと思います。昨今のダンスを見なれていると、まったく理解できないかもしれません。

 

私は、面をつけて舞いますので、そもそも表情が使えません。衣装の制約があり、身体の動きも少なくなります。私は男舞で曲線的な動きで舞います。そして、私の舞もまた、なにがいいのかわかってはもらえないことがほとんどです。

 

「血のにじむような厳しい稽古だけがすべて」

 

私も、強くそう思います。