身体の美しさこそすべて

日本の舞踊 渡辺保著 岩波新書 72Pより

そこで必要な物は物語や歌詞の意味ではなく、身体そのものの美しさだったからである。

舞踊を見るたのしみの第一は、この身体の美しさにある。その場合の「身体」の概念がどこまでひろがるかはしばらくおいて、身体そのものの美しさがなければ舞踊は成り立たない。

武原はんは、その純粋な美しさを追求した人である。身体の美しさこそ全て。ということは、ほかのいかなる価値よりもその美しさを尊重するということであり、美そのものがあらゆる価値に先行するということであった。物語はいうまでもなく、音楽も、その美しさを引き出すための手段にすぎず、身体が当然含みこむはずの心の動きといったものですらほとんどここでは関係がなかった。

人間の身体の美をつきつめていけば、その身体の構造にいたるのは当然であろう。武原はんにとって自分の身体の「性」を無視することができなかったばかりか、むしろそのそのことを強調せざるをえなかった。ということは、それほど鋭く深く彼女が自分の身体というものを一つの「もの」として問いつめたということである。そしてその結果、そこに濃厚な、女の色気が漂い、その色気こそが彼女の世界をつくる中心的な要素としてあらわれたのである。

舞踊が身体の動きによってつくるられるものであることはいうまでもない。人間の動きにはさまざまなテンポがある。激しいものもあればゆったりしたものもある。激しいものは舞踊の律動感を強調して身体の美しさをこえる。しかし武原はんは音楽と不即不離にそのテンポから離れることができた。それが日本の音楽と舞踊の比較的ゆるやかな関係の特徴であるが、武原はんはその特徴を利用して古典的な振付さえもこえてしまった。本来「雪」や「鐘が岬」の振付は、もっと起承転結のはっきりしたものである。しかし武原はんのそれを見ていると、いかにもゆったりとしている。なぜだろうか。それは彼女がそこで身体の美しさを強調するために動きを極力セーブし、そのことによって身体の美しさを強調しようとしたからに他ならない。

武原はんの舞踊の美しさは、動的なものではなくて、静的な美しさである。その舞台をよく見ているとわかるが、彼女は一瞬たりとも静止していない。どこかが動いている。きまるかと思うときまらず、次のポーズへゆっくりうつっていく。つまり静的なものの中に本来の動きをつつみ込むことによって、彼女の舞踊は成り立っている。彼女がそうしたのは、舞踊における身体の美しさというものが単なるポーズによってではなく、フォルムによってこそ成り立つことを知っていたからである。舞踊が動きによって成り立つのは当然のことだが、ここに彼女独特の「動き」のとらえかたがあった。

ここでフォルムというのは単に形を意味しているのではない。形をこえた動きの関係とでもいうべきものをいう。手と足、足と裾、袖と肩、目と顔、そういう身体の各部分の相互の関係、ことにその部分の瞬間瞬間の動きによって変化する関係をいう。すなわち身体の美しさはこの動きのフォルム……関係によってはじめてつくられるのである。

「性」と「動き」。この二点こそが、武原はんの舞踊の世界をつくった。その方法によって到達した結論こそ、「身体の美しさこそ全て」。

武原はんによって、私は人間の美しさ(ことに女性の美しさ)を知り、舞踊のもっとも根源的なものが身体そのものにあることの意味を知ったのだ。

引用ここまで

 

 

まだ続きがあるのですが、いったんここで。

武原はんには、私も影響を受けています。

私が音ハメをしないのも、これが理由です。

動きを静的なもので包容していく感じを大切にしています。

 

つづきます。