承認欲求・自己顕示欲求・優越欲求・対立欲求・ナルシシズムが強すぎる動きは薄汚くなってしまう。気持ち悪がられる理由。

■承認欲求

他人から肯定的な評価を受けたい、否定的な評価をされたくない、自分を価値のある存在だと思いたい、という欲求。

■自己顕示欲

自分の存在を必要以上にことさらに他人に目立つようにすること。せっかちで他者の話を聴かない。

■優越欲求

他人より優れていたいと思う欲求。自慢話をしたり、ステータスやプライドが高い、人と比較してしまう、上からアドバイス、人のせいにするなど。

■対立欲求

他人と違いたいと思うこと。奇抜な格好をしたり、変な行動をわざと取ってしまうなど。

ナルシシズム

自己陶酔症。自分自身を愛の対象とすること。自己の容貌、肉体などに自己賛美的な愛着を感ずる傾向がある。

 

 他者承認欲求は、文字通り「他人に自分を認めてもらいたい」という欲求です。SNSの普及に伴い、他者承認欲求をこじらせやすくなったそうです。他人からの評価=いいねやフォロワー数が人の価値の基準となり、注目されたい・賞賛されたい・名声を得たいという欲求に歯止めがかかりません。他者承認欲求を満たそうとしたとしても、一時の錯覚的幸福感は得られるかも知れませんが、心からの満足感を得ることはできません。

 心が満たされることはなく、「もっと、もっと」と渇望するようになり、期待したような反応がなければ、欲求が暴走します。

 他者承認欲求は、満たすという方向性のものではないと思います。満たそうとすればするほど、現実生活に負担をかけるからです。他者からの承認欲求をなくし、現実の自分を見つめることが重要となると考えています。つまり、他者承認欲求をできるかぎり減少させつつ、自己承認欲求を満たす方向性でいくことが大切だということです。失敗を受けいれ、次はどうしたら良いかを真剣に考えます。自分のダメな部分=ネガティブな部分を正面から受けいれることが大切だと思います。

 強いコンプレックスを持ち、他人と比べて自分は劣っていると感じている人たちの中には、誰かに認められた経験が壊滅的に乏しいからこそ、SNSで「自分は特別な存在である」と誇示している人がいます。

 見栄っぱりな傾向がある人は、自分がちぽっけな存在だと思われたくないという感情から、事実と異なる似非キラキラを発信したります。

 人との繋がりが稀薄で寂しい人は、SNSでたくさんの他人からの賞賛を得ようとしがちです。寂しさが極まると、ポエムを書くようになるようです。本来であれば、真の理解者がひとりでもいれば、不特定多数の個人に認められなくても、安心して生きていけます。

 SNSで、他人の気持ちを無視して自己満足の投稿を行う人は嫌われます。相手が満足を得るために自分が利用されるのは気持ち悪いからです。自分を認めさせる手段として他者を利用すれば、ネガティブな印象を抱かれるのは当然の結果だと思います。

 舞の場合も、観客の気持ちを無視して自己満足の舞を舞う人は嫌われます(というか、無視されます)。舞人が満足するために観客を利用しようとするから気持ち悪がられて終わります。観客を満足させるのが舞人の役割のひとつなのですから、主客転倒(しゅかくてんとう=人の立場・順序・軽重などが逆になること。)となり、破綻します。

 観客は舞人の承認欲求を満たすための道具ではありません。舞人は観客と一体となって場を形成するのがその存在理由です。ワカメ踊りやタコ踊りが揶揄されるのは、その場を形成することができない薄汚い気持ち悪い動きだからなのではないかと思います。実際にその動きを真似てみて、その思いが強くなりました。 

 

 観客は自分の承認欲求を満たすための道具だと勘違いしてしまうと、本来得られるはずだった承認ごとすべてを失ってしまう結果になってしまうと思います。

 自分の立ち位置、分際、身の程、器に合わせて、他者承認欲求の暴走を抑えながら、自己承認を繰り返していくことが大切だと思います。

仲間内でしか通用しない芸を一般公開すると酷評されることがあります

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わかめ

 とあるダンサーさん(アーティスト)が、某イベントで披露した茎ワカメダンスを酷評され、Twitterアカウントを突然削除されてありました。

 仲間内では評価の高いダンサーさんであることは、Instagramを見るとよくわかります。Twitterの不特定多数の一般の方からは、「怖い」「意味がわからない」「ダサい」「マジで恥ずかしくてたまらない」「とても見ていられない」「日本人であることを恥ずかしく思った」「誹謗中傷はかわいそうだけど、テレビに映ったわかめダンスに柴犬が猛烈に吠え散らかす動画は笑った」……というような感じで、情け容赦ないコメントが書きこまれていました。

 また、他の自称歌手(シンガー)さんや自称ダンサーさんなどもライブ風景をSNSで発信されていて、仲間内では賞賛されているものの、やはり一般の方々からは酷評されているようです。こちらの場合は、本人たちが大言壮語(実力以上に大きなことを言うこと。おおげさに言うこと。できそうにもないことや威勢のいいことを言うこと)していることもあり、嗤(わら)いものになっているか、完全にスルーされているようです。

 仲間内でしか通用しない芸は、仲間内だけで披露していれば問題は起こりません。通用しない世界に向けて披露すれば、当然の結果として酷評されることになります。なので、自分の芸は、どこまでの範囲で受けいれてもらえるのかを見誤ることのないようにしないと、かなりのダメージを受けることになる気がいたします。

 完全な自己完結自己満足、つまり自分ひとりで盛り上がっているのであれば問題はありません。自分の世界という範囲を超えて、家族というハードルや友達という範囲になっただけで、いきなり酷評される可能性が高くなります。ファン(特定の人物や事象に対する支持者や愛好者のこと。「熱狂的な」を意味するファナティックの略。)という範囲ですら、酷評はされます。と、ここまでが仲間内なのですが、これから外の範囲では、かなり厳しいことになります。

 能力がなくても、容姿がアレでも、仲間内であれば生あたたかく見守ってもらえる可能性は高いです。しかし、それが仲間でない人たちに通用するかというと、そんなことはありません。なので、人前で何かを披露するときには、それなりの覚悟が必要になってくるように思います。それこそ、全否定されても仕方がないという気持ちでいないと、その失礼な態度ゆえに余計に叩かれることになります。

 現実世界はとてもシビアで、「あなたのパフォーマンスには何の需要もありません」と、あっさり斬られてしまいます。直接そう言われることもあれば、何となく距離をとられたり、わかりやすく無視されたり、酷評されないまでも「もう見たくない。聴きたくない」という意思表示をされることになります。パフォーマーにとっては地獄のような瞬間なのですが、面白くもない芸を無理に押しつけて観客を地獄に突き落としたパフォーマーの方に非があるわけで、先に傷つけたから報復されて傷つくことになっているというのが実際のところだと考えております。

 なので、地道に芸を磨いて支持してくれる人を増やしていくことが大切だと思うのです。支持者でも愛好者でもない人にとっては、単なる迷惑行為でしかないという現実を理解していれば、自己判断で出しゃばって場の雰囲気を壊してしまうことはないはずです。というよりも、場の雰囲気を読めない人に面白いパフォーマンスはできませんから、引っ込んでおいた方が無難だということなのだと思います。

 「自分に、この場に立つ資格があるのか?」という問いを、私はいつもしています。その資格がないと感じたときは、可及的速やかにその場から去ることにしています。観てくれる人が嫌な思いをするのであれば、私のパフォーマンスの意味が消滅してしまいます。パフォーマンスは自慢するために披露するものではなく、面白き世をさらに面白くするためのものだと思います。なので、観てくれる人に嫌な思いをさせることが予想される場合は、身を引くことが大切だと考えております。

 人前で何かを披露すると、狂ってしまうことがあるようです。特に、普段の生活の中で注目してもらえる瞬間のない人や、これまで賞賛されることなく生きてきた人は、たった数回の仲間内からの賞賛で舞いあがってしまい、それが一般世界でも通用すると誤認して突き進んでしまうことになりがちなようです。それは、自分の殻を破ったのではなく、盛大に勘違いをし始めただけなので、どこかの時点で破綻してしまう結果になります。破綻してからリカバリーしようとしても、なかなかに難しい過程となります。

 できる限り仲間内での披露のみを前提として活動していくのが私のスタンスです。

日常を送る力が枯渇してしまっている状態では、舞は舞えません。気持ち、気力、気迫、気合……内面的な気が枯れて、やる気のない状態でキヨメはできません。

 以前(2020年5月1日)、こんな記事を書きました。

orochinomai.hatenablog.com

 

 元来、「踊る」という行為そのものが、古代では宗教的行為であり、神霊を讃え、あるいは霊を呼ぶものであった。「舞う人」も「歌う人」と同じく、やはり一種の神であった。つまり、歌い舞う人は神となってその場を浄化することができるのであり、それ自体がひとつの呪術として認識されていたと考えてよい。「呪術の本」学研 87-88Pより

 1年と少しを振り返ってみて、「場を浄化することができる舞」とは何かが少しだけ見えてきた気がいたします。少なくとも、「場を穢す舞」とは何かはよくわかったように思います。場を浄化している舞では、その場が一体となります。場を穢す舞では、その場が崩壊します。

 歓喜雀躍(非常に喜び楽しみ、こおどりすること。喜びいさむこと。歓喜踊躍。欣喜雀躍。かんきしゃくでき)という言葉で表現されるような舞を納めていくことが、今後の課題だと感じております。そうでなければ場が一体にはなりませんし、浄化もされませんから。

 場が白ける(興がさめる。その場の雰囲気がまずくなる。愉快な雰囲気が壊れること。)=崩壊する=穢れるという事態を引き起こしてはいけないことがよくわかりましたので、今後はきちんとしていかねばならないと考えております。

 戦後の民俗学では、「ケガレ」を「気枯れ」すなわちケがカレた状態とし、祭などのハレの儀式でケを回復するという考え方も示されています。ケガレをはらう→浄める・清めるです。気持ち、気力、気迫、気合……内面的な気が枯れて、やる気のない状態で浄め・清めはできません。我が強い気枯れた人は舞えないのです。

 穢れとは怠惰な生活や劣悪な欲望であり、またそこから生じた心身の状態だとされています。穢れが身体につくと、個人だけでなくその人が属する共同体の秩序を乱し災いをもたらすと考えられてきました。気枯れた状態では、日常生活=ケ(褻)の生活が順調に行かなくなります。日常を送る力が枯渇してしまっている状態では、舞は舞えません。

 素直な心で、魂魄の隅々まで目覚めさせていかねばなりません。心身を最善の状態にしていくことが浄め・清めの原理となります。

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アズミノイソラ

 

音楽無しでの動きでも、観客を魅了することができる。

 音楽なしの動きで観客を魅了できる例のひとつに空手の型があります。

 というよりは、音がないからこそ、魅了されると言ってもいいかもしれません。

  気合の入っていない冗長(無駄)な動きは、観客を魅了するどころか、退屈させてしまうことになります。動きの流れは同じであったとしても、姿勢・呼吸・動きのすべてが違います。そもそもの場の空気感が違うのです。文字通り「振る舞う(それらしく、そう見えるように動く)」なのです。

 空手の場合は、仮想敵をイメージして型を演じます。能の場合は、何かをイメージして舞います。この世に存在しない(目に見えない)何かをイメージして本気で動くので、発汗し呼吸も荒くなります。明確なイメージができずに、ただ虚ろに動いているだけの人の動きが観客を魅了することはありません。

 仮想しながらの気が遠くなるような繰り返し稽古。やってますアピールなど混じりようの無い真剣な修練。そういった積み重ねの果てに、音がない方がはるかに魅力的な動きが生まれてきます。そもそも、ろくに練習もせずに観客の前に立つという礼を欠いたことをしているようでは、演ずる前にもう終わってしまっています。

 「もっと観たい。いや、このままずっと観ていたい」と歓喜してもらわないといけないのに、「つまんないから早く終わってくれないかな」とイライラさせてしまう。観客が帰ってしまう。それは、自分がやってきた愚行が引き起こした無残な結果でしかありません。付け焼刃など通用しないということを考えもしなかった末のことなのです。

 何かのせいにしている時点でダメなのです。すべては自らの浅慮(思慮が浅いこと。浅はかな考え。)が招いたことです。

 観てもらえるということはとても希少なことです。その機会を棒に振ってしまえば、その先には何もないと思います。日々の稽古を怠ることなく積み重ねるのは最低限。それに何を乗っけていくかを真剣に考えなければならないと思います。

自分が優れていると思い込んで、他の人を軽く見てしまったことによって受けるダメージは、なかなか回復しません。

 

■自慢は知恵の行き止まり

人間は自慢をするようになると、高慢になるばかりで進歩向上はしなくなる。また、人から嫌われてそれ以上の展開もできなくなる。

 

 高慢さは芸の行き止まりとも言われています。ある程度以上に稽古を積み修業を重ねていると、他者に観ていただける芸になりますが、それは上達の過程でしかありません。いまだ自分の芸の未熟を思い知り、死ぬまで辿り着けない芸の高みを生涯目指さねばなりません。高慢な人にそれはできません。自信に満ちた人には、それができるかもしれません。 

 自分のそばに褒めてくれる人やイエスマンしかいないと進歩上達はありません。真の贔屓(ひいき)は、諫言苦言を与えてくれます。素質は磨いてこそ輝くものであり、苦労して稽古と修業に励まなければ開花することはありません。小手先の器用さでは本物は生まれないのです。

 自分が優れていると思い込んで、他の人を軽く見てしまう人は、 知恵が足りないとされています。高慢になると他の人の考え方や意見などを受け入れないため、自由な発想ができなくなるからです。自慢をしたがる人は自分に自信がもてなくて、他人に認めてほしい、褒めてほしいという欲求が強いそうです。他人が自分を評価してくれないという不満をもっていたりもするようです。

 実際に舞台に立つと、否が応でも観客の反応がすべてとなります。自分に華があるかどうか、花を咲かせる(優れた芸を披露できる)かどうかが、その場でわかります。舞台の外で自慢話ばかりしていた人が舞台に立つと、観客は白けます。稽古を積み重ねていないことが、その佇まいですぐにわかるからです。そして、舞台は台無しとなります。

 自分が優れていると思い込んで、他の人を軽く見てしまったことによって受けるダメージは、なかなか回復しません。先ほどの記事にも書きましたが、再起は非常に厳しくなってしまいます。高慢になった代償は高くつくので、自分が優れているなどと勘違いしないように気をつける必要があります。そもそも、勘違いできるほど優れてはいないわけですから当然だと思います。

 6世紀後半にグレゴリウス1世が、「高慢」をすべての悪の根として別格扱いとしました。自分のことを優れていると思い上がって、おごりたかぶり、他を見下すことから、さまざまなことがうまくいかなくなっていくのだと思います。

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7つの大罪

■謙虚

自分を偉いものと思わず、すなおに他に学ぶ気持があること。控え目で、つつましいこと。へりくだって、すなおに相手の意見などを受け入れること。また、そのさま。 

 謙虚な姿勢で接してくれる人は好かれやすく信頼が得やすくなります。他者の意見を素直に受け止め取り入れることができ、人間関係が円滑になりやすいのです。関わった人から学ぶことができるので大きく成長していけます。さらに、関わった人から手助けをしてもらえやすくなりますので、展開もスムーズです。

 その場の空気を読み、自分が主張すべき局面とそうでない局面をきちんと把握して、相手の話を聞く側に徹したり、発言できる場であえて回答を他人に譲るなどの配慮を、人知れずしています。

 

 こうして、高慢な人は機会を失い、謙虚な人は機会を得ていきます。

反省点を客観的に分析し改善・修正をしていく。

 反省点を客観的に分析し改善・修正をしていく。具体的な改善策を出して実行に移す。改善を重ねるごとに目標達成に近づき、成果を出せるようになる。

 当たり前のことですが、自分の言動がもたらした結果について振り返ることなく、改めなくてはならない点を改めなかったとしたら、もうその時点でエンドレスに愚行を繰り返す結果となります。同じ間違いは、繰り返すほど強化されてしまいます。何がどう問題なのかを真剣に考えないと、とてもまずい展開となりがちです。

 ものごとの多くには、二度目がありません。やり直しができないことがほとんどです。というより、同じ条件でもう一度やることは絶対にできません。だからこそ、その都度、全力で真剣に望むべきなわけです。失敗したら、また今度やればいいやという考えが通用する場面ならいいのですが、ここ一番の場面ではそれは通用しません。

 そう。もう二度とチャンスは廻ってこなくなるのです。

 チャンスが廻ってこなくなってから落ち込んでみても後の祭(時機を逸して、どうにもならない。悔やんでも取り返しがつかない。)です。せっかく廻ってきたチャンスを粗末に扱った結果、その後に続くはずだったたくさんのチャンスを喪失してしまうのです。そうして失ってしまうものはとても多く、そして大きいものになります。

 つまり、反省できるうちに反省し、改善できるうちに改善していかないと、ここ一番のときに盛大にやらかしてしまい自爆するということです。与えられた課題をきちんとこなさないとしたら、もうその先はありません。自分の役目・立場・立ち位置を理解し、やらなくてはならないことをきちんとやらねばなりません。

 

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玄武

 「仕方のない失敗」は文字通り仕方がありませんが、「しなくていい失敗」は避けるべきです。しなくていい失敗を避けるためには、まわりの人たちの反応や他者の意見に耳を傾けていく必要があります。そうして、反省と改善を繰り返した先には、明るい展開が生まれるかもしれません。