日常を送る力が枯渇してしまっている状態では、舞は舞えません。気持ち、気力、気迫、気合……内面的な気が枯れて、やる気のない状態でキヨメはできません。

 以前(2020年5月1日)、こんな記事を書きました。

orochinomai.hatenablog.com

 

 元来、「踊る」という行為そのものが、古代では宗教的行為であり、神霊を讃え、あるいは霊を呼ぶものであった。「舞う人」も「歌う人」と同じく、やはり一種の神であった。つまり、歌い舞う人は神となってその場を浄化することができるのであり、それ自体がひとつの呪術として認識されていたと考えてよい。「呪術の本」学研 87-88Pより

 1年と少しを振り返ってみて、「場を浄化することができる舞」とは何かが少しだけ見えてきた気がいたします。少なくとも、「場を穢す舞」とは何かはよくわかったように思います。場を浄化している舞では、その場が一体となります。場を穢す舞では、その場が崩壊します。

 歓喜雀躍(非常に喜び楽しみ、こおどりすること。喜びいさむこと。歓喜踊躍。欣喜雀躍。かんきしゃくでき)という言葉で表現されるような舞を納めていくことが、今後の課題だと感じております。そうでなければ場が一体にはなりませんし、浄化もされませんから。

 場が白ける(興がさめる。その場の雰囲気がまずくなる。愉快な雰囲気が壊れること。)=崩壊する=穢れるという事態を引き起こしてはいけないことがよくわかりましたので、今後はきちんとしていかねばならないと考えております。

 戦後の民俗学では、「ケガレ」を「気枯れ」すなわちケがカレた状態とし、祭などのハレの儀式でケを回復するという考え方も示されています。ケガレをはらう→浄める・清めるです。気持ち、気力、気迫、気合……内面的な気が枯れて、やる気のない状態で浄め・清めはできません。我が強い気枯れた人は舞えないのです。

 穢れとは怠惰な生活や劣悪な欲望であり、またそこから生じた心身の状態だとされています。穢れが身体につくと、個人だけでなくその人が属する共同体の秩序を乱し災いをもたらすと考えられてきました。気枯れた状態では、日常生活=ケ(褻)の生活が順調に行かなくなります。日常を送る力が枯渇してしまっている状態では、舞は舞えません。

 素直な心で、魂魄の隅々まで目覚めさせていかねばなりません。心身を最善の状態にしていくことが浄め・清めの原理となります。

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アズミノイソラ