片脚の母趾球(足の親ゆびの付け根)か踵(かかと)を支点にして全身を旋回させる。

 舞の旋回法にはさまざまなやり方があります。私は、片脚の母趾球(足の親ゆびの付け根)か踵(かかと)を支点にして全身を旋回させております。左右への切り返し動作が多いので、膝を曲げた状態でハムストリングス(もも裏の筋肉)を使うことで効率的な方向転換が可能になります。足幅が広くなっても、この旋回方法であれば無理なく回復することができます。支脚の上に脊柱の軸があるため、遊脚を自在に動かすことができ、素早くうごくことができます。大蛇の運足は、180°旋回をつなげていくものですが、膝を直角に曲げたまま下腿の回旋力を使って旋回するために袴やスカートで足を隠すと、どうやって移動しているのかわからないと思います。

f:id:orochinomai:20201130193728j:plain

旋回

 両足を支点とする旋回方法では、両足の間で脊柱が軸となります。安定性が高くなる代わりに、動きは遅くなります。飛行機で例えると、片脚旋回は戦闘機、両脚旋回は旅客機(ジャンボジェット機)のイメージになるかと思います。旋回するというよりは、「歩きまわる」というような感じとなります。

 旋回時に、完全に一本足になることは避けております。視覚に頼りすぎず、足底感覚を使いたいからです。大地とつながって動きますので、むやみにやたらに飛び跳ねることはありません。なめらかに地を這うように見えるはずです。脊柱の側屈と骨盤の片側挙上を組み合わせることで、独特の蛇行運動をなります。

四股を踏むような所作で十五夜踊りを踊る(鹿児島)

十五夜行事の基本構造より

十五夜の大綱を、とぐろ状に巻いたり、蛇とみなしている事例が各地にある。また「竜神」という言葉もあるが、下野敏見氏は、竜神の概念は相当発展した文化レベルに位置するもので、農漁民の間では蛇とか大蛇と理解していたと述べ、十五夜綱に関する蛇性のものを「竜蛇」と表現している〔下野1989a、169―170〕。

下野敏見氏は泊十五夜のオドリクヤシ(踊り壊し)を次のように解き、十五夜行事が死と再生のモチーフにちなむ健康祈願・豊作祈願の行事であると述べている〔下野2005a、271〕。

十五夜の綱は蛇の象徴であり、オドリクヤシはオドリの輪や列を蛇と見ての“断ち切り”である。欠けてもまた満つる月や脱皮しても再生する蛇は、永遠不死の存在であり、こうして人々は仲秋の名月に健康祈願を祈るのである。それに月の夜は露が降り、蛇は水の主でもあって、月と蛇を祈ることは雨乞いに通ずるもので、豊作祈願の趣旨もある。」
※引用ココマデ

 

九州中南部の宮崎、熊本、鹿児島から南島にかけて、旧暦8月15日に綱引を行う。もともと綱引きは日本、朝鮮、東南アジアの地域に多く見られ、主に稲作の吉凶を占う行事であるとされてきた。また旧暦五月に竜神を迎え水神祭をし、旧暦八月に竜神を送って十五夜綱引をするのが古い竜神の祭り方であり十五夜綱引の始まりではあるまいか 山からしかし著者は十五夜綱引とそれに関する民俗を選び、古形を探り、研究をすすめていくうちに全く違った結論を得るに至った。竜神送りである。今も満月の夜に月に祈りをささげ、綱を引き、相撲に興じる人々に日本の文化と精神の神髄を見る。
※ 十五夜綱引の研究 小野重朗著より

 

 

 綱引きののち、藁(わら)でつくった「蓑笠(みのがさ)」をまとった子供たちが四股を踏むような所作で十五夜踊りを踊ります。知覧町では、十五夜綱引を終えた後に、男の子供組の者がソラヨイをします。永里の中福良では、網作りのときに用意したワラのミノ、ハカマという肩蓑、腰葉風のもの、同じくワラのヨイヨイ笠という長円錐形の帽子などを裸の上に着けて列を作って土俵に上がります。土俵の中央には大きな傘状のヤマがあり、子供頭がその中に入って指揮します。子供たちは輪を作り「サア、ヨイヤンソーシツ、ソラヨイ、ソラヨイ、ヨイ、ヨイ」と歌いながら、相撲の四股を踏むのに似た単純な動作で踊ります。踊りを何種類か踊って退場したのち、扮装を脱いで、十五夜相撲が行われます。 

 

十五夜の綱は龍蛇(水神)をイメージしており、脱皮して力を再生する海の精霊の力にあやかって健康を祈願し、集落を清めるとされます。月は満ち欠けをする再生のシンボル、蛇もまた脱皮を繰り返して生きる再生のシンボルだと考えられています。

 綱引きをせずに、子供たちが綱をかついで村の周囲を歩き、穢れを綱にたくして村を清めたあと、綱を海や川に流すところもあります。盆綱(ぼんづな)では、子供たちが新盆の家などを龍蛇にかたどった綱をかついでまわり、綱には精霊が乗ってやって来るとされています。龍蛇が異界から来訪し、村を祝福し清めたあと再び異界へ戻っていくという形をとるところもあります。綱を担いでまわる形態は、綱を引き合う形態より古いと考えられます。綱担きと綱引きずりだけで綱の引き合いはしないところも多くあります。鹿児島湾には、十五夜綱が水神の竜であるという伝承があり、十五夜には水神の龍が集落をまわって秋の豊作を祝福して、水界の海や川に帰っていくものと考えられています。

 また、鹿児島には、月読尊は桜島で出生したという口碑があるそうです。

 人の力士同士の最古の戦いは、野見宿禰當麻蹶速当麻蹴速)の「捔力(すまいとらしむ・スマヰ)」とされています。

「朕聞 當麻蹶速者天下之力士也」

「各擧足相蹶則蹶折當麻蹶速之脇骨亦蹈折其腰而殺之」

 蹴り技の応酬により、宿禰が蹴速の脇骨を蹴り折り、倒れた蹴速にさらに踏み付けで加撃して腰骨を踏み折り、絶命させたとされます。

日本書紀 垂仁天皇7年(紀元前23年)7月7日 (旧暦)

今年の年末、鹿児島にて、四股を踏むような所作=醜(しこ)足で舞うことになりそうです。「月(太陰)」を象徴する龍蛇の舞を奉納したいと考えております。

f:id:orochinomai:20210412191024j:plain

吉福社中 吉原狐舞稽古

yoshiwara-kitsune.jimdofree.com

 

日本の古き良き仮面劇である神楽の魅力を今に伝え、わかりやすく面白い芸能としての革新を目指す神楽団「吉福社中」の百合之介@吉福社中(狐太夫)さまの指導の元、安部塾東京IBUKIにて稽古をつけていただきました。

参加されたみなさまが、「楽しい♡」と口にされてありました。今後も定期的に稽古会を開催したいと思います。

自分のまわりに境界線を引く~歩行で結界を張る~足踏み・引きずり

古代舞の足さばきには、歩行呪術がとりいれられております。一定の方則に従って足を踏み歩行する=足さばきをする作法には、呪術的な効果があると考えられていたそうです。

・四股(醜足)

・田楽

・神楽

・申楽(猿楽)

念仏踊り

・六方

そして、反閇と禹王の歩行法。

古代においては、邪霊悪鬼を鎮め祓い浄める歩行法・足踏みがおこなわれていました。邪気を踏み破り鎮め、そこから吉祥を呼びこもうとしたようです。歩行によって結界を張っていたと考えられています。

原初的歩行呪術である激しく足を踏み鳴らす「だだ=達陀」は、現代のダンスでもよく見られる、擬音であらわすと「ダダ、ダダダン」とかが使われる系統のステップにつながっているように思います。

足を引きずる作法は、子供が地面に足で線を引いて、「こっちは僕の陣地」とかやる感覚に近いと思います。舞踊の「おひきずり=裾引き着物」の足さばきも、元は何らかの呪術だったのではないかと思います。

f:id:orochinomai:20201207095929j:plain

おひきずり

すり足は、大地の霊に尊祟の念をあらわす行為が源流との説もあるようです。

林達夫さまの「楽器が自らの音の調べとリズムを主張するとき、人の身体、人の身振りや身のこなし方にも干渉し、注文をつける。わが国の芸能においては、スリ足で舞い舞いして、なかなか大地からはね跳ぼうとしないのは、楽器の発達が縄文以来、控えめに終始してきたことに遠い由来があるのかもしれない」という説も興味深いです。

古式の舞は、腰低く重心を落とし重々しく舞われます。股を割り腰をいれる「地霊を鎮める所作」が見られます。「二畳で舞え」と言われる「足の裏を見せないすり足」が特徴です。腰から両足の足裏まで地に密着した重心の低さが鎮めにつながるように感じます。

力士が地から天にせりあがり、力強く四股を踏み、「地の負(陰)」を鎮め、「天の勝(陽)」を祈りあげる呪術的作法も、現代に残っております。

金屋子神は八幡神?

玉鋼の杜 金屋子縁起と炎の伝説  36P~

石塚尊俊氏は、金屋子神の縁起書や、口伝から、金屋子神八幡神であろうかと説いておられる。火は日と音の一致が示しているように、火の神は元来日の神である。金屋子神は通常女神であったとされているが、だが、それはこれを祀る者が女であったからで、もとは若々しい男神であった。それは火の神であって、時には雷の形をもって降臨せられた。旱天雨を乞うとき、雨とともに天降りましたというのは、もともとこの神が日の神であり、雷の形をもって降臨せられる神だったからにほかなるまい。それは時には火雷神の丹塗の矢のごとく、矢の形をもって現じたまうこともあったろう。だから神主安部も弓矢をもって迎えた。突如として狩の記事を出しているのは、もともと狩具が弓矢であり、弓矢は本来火の神をまつる祭具にほかならない。

八幡信仰は、「玉依姫考」に説かれているように、母子信仰に始まっている。即ち、八幡三所の一所たる比咩神とは多くの場合玉依姫で、「依」は「魂の依りつく意」で、八幡神は、そうした、大神に仕える巫人と御子神との母子三柱の神を中心とした信仰から始まったと説き、その証左として、大隅八幡宮の縁起を揚げておられる。これと変わらぬ母子信仰本来の形に近い話を、赤来町の旧県者「出雲赤穴八幡宮」において発見したとして、柳田先生の説かれる八幡神話より古形のものがあった。又、この八幡宮が鎮座する場所の小字が「金屋」となっている。金屋とは、いうまでもなく、金屋子信仰の伝承者・炭焼小五郎の撒布者であった。

八幡神が本来鍛冶神であることは、「炭焼小五郎」に書かれて以来、今日通説になっている。ここに金屋子の降臨譚を持ち出してくるとき、それがやはり母子信仰のひとつの流れであり、金屋子信仰そのものが、本来やはり八幡信仰と同系であったことが推察される。八幡信仰を運んだものが金屋であり、しかしてこの神の名が金屋子神であることを考えるとき、当然に因縁の浅からぬものを感じざるを得ぬのである。のみならず、降臨譚には神を運んだものが白鷺だったと伝えている。白鷺とは八幡の遺し女であり、かつ、朝日長者の福神でもあった。

八幡信仰は、宇佐に始まって後全土に拡まり、それと同時に性格が全く一変した。しかるに金屋子神は、今日、中国山地を頂点として余影は、奥州・関東にも及び、今日地方における鍛冶神としては最も広い領域を占めている。なぜ宇佐に残らずに、もっぱら中国山地で発達するに至ったか、その答は単純である。つまりこの地のもつ自然がそれを支えたのである。ここには良質ともに豊富な砂鉄があり、それによるいわゆる鑪吹の技術が古来最も盛んであったからにほかならない。いい換えれば、その信仰の基盤とも称すべき条件が、ここではもっとも安定していたということが、ついにこの地をして鍛冶神信仰の中心地たらしめ、また、比田の杜をして諸国同名神社の総本祠たらしめた根本的な理由であった。のみならず、この地は都に遠く、八幡神が国家第二の宗廟として朝野の尊信を受けられたごとき、中央からの影響を蒙ることが少なかったということも、これをして比較的純粋なまま火の神の伝統を継がしめた所以ではなかったか、と述べておられる。

宇佐八幡神の由来は甚だ特異で、「足助八幡宮縁起」によると次のような由来譚があるとされれている。中略。宇佐八幡の神格は元来鍛冶神であり、かつ、まさしく童形の神なのである。

まだたたら作業の幼稚であった時代に、火の神(日の神)の信仰を奉じて、山野に炭を焼き小鉄を探して移動した一団の人々が持ち歩き拡めたものが、金屋子信仰のいまひとつ以前のものとしての八幡信仰であったろうとことを申し添えておく。雌雄の和合は死の蘇生でもあったからして、黄金が俵に包まれてあったという九州宇佐の縁起談もまたこの金屋子信仰と無関係ではなく、隠された原始信仰の一面を物語るものであろう。

この長者の話の起源が、もし自分の想像する如く、宇佐の大神の最も古い神話であったとすれば、ここに初めて小倉の峰の菱形池の畔に、鍛冶の翁が神と顕れた理由もわかる。

八幡神について、二宮正彦氏は八幡大神宇佐神宮も起源について分類・列記しておられる。まず、固有信仰に分類される例として、兎狭国造を祖神とする氏神説、神功皇后新羅進攻に準拠する誉田別尊応神天皇)説、神功皇后を母、誉田別尊を子とする母子神説、八幡大神の顕現された遺跡を重視する巨石崇拝説、八幡大神東大寺大仏造立での神助から類推する鍛冶神説などが挙げられる。

f:id:orochinomai:20201130193728j:plain

大蛇乃舞

f:id:orochinomai:20201130193726j:plain

大蛇乃舞




ヤアタノオロチノマイ

11月21・22日、奥出雲にて「八岐大蛇乃舞」を舞います。

紀元前15世紀頃のアナトリア半島で、人類で最初に製鉄法を発明した古代ヒッタイト帝国の首都「ハットゥシャ」……八頭蛇と読めることからつながりがあるのではないかとする説があります。他民族が青銅器しかつくれなかった時代、製鉄技術によりメソポタミアを征服し、最初の鉄器文化を築いたとされます。最近ではヒッタイトが製鉄法を発明したのではなく、ヒッタイトが征服した先住民だった可能性が高いともされています(ヒッタイトより古い時代に鉄がつくられていたようです)。アナトリア高原においては鉄鉱石からの製鉄法がすでに開発されており、ヒッタイトは紀元前1400年ごろに炭を使って鉄を鍛造することによって鋼(はがね)を開発し、鉄を主力とした最初の文化をつくったそうです。

ヒッタイトの滅亡によって、直接製鉄法(塊錬鉄製鉄法)が各地に伝わっていったそうです。踏鞴製鉄は、800℃位の低温で鉄塊を製造し、鉄塊を再度加熱製錬・鍛造(ハンマーで叩く)する方法だそうです。

八岐大蛇退治に酷似したヒッタイトの龍退治神話。嵐の神「プルリヤシャ」が、様々な種類の酒を瓶に入れて小屋に隠すと龍の神「イルルヤンカシュ」が酒の匂いに誘われてやって来て酔い潰れたところを斬り殺したというもの。

f:id:orochinomai:20201119222442j:plain

Illuyankas

八幡(やはた)……ヒッタイトの製鉄技術が、後の八幡製鉄につながったとする説もあります。奥出雲と八幡は、元はひとつだったのかもしれません。

「ハットウシャ」は「八頭宇佐(うさ)」。ウシャ~うさは「社(神殿)」。製鉄の民は北方の天空に輝く北極星を祀ります。北極星(天神アン)を祀る社。ハティムアン~八幡。宇佐には、八幡神が老いた鍛冶の翁となって示現した話が残っていたりします。

『八幡宇佐宮御託宣集』には、欽明天皇三十二年(571)辛卯、八幡大明神、筑紫に顕れたまふ。豊前国宇佐郡厩峯菱形池の間に、鍛冶の翁有り。首甚だ奇異なり。これに因って大神比義(おおがのひぎ)、穀を絶つこと三年、籠居精進して、即ち幣帛を捧げて祈って言く。「若し汝神ならば、我が前に顕るべし」と。即ち三歳の小児と顕れ、竹葉に立ちて宣く。「我は是れ日本の人皇第十六代誉田の天皇広幡八幡麿(ほんだのすめらみことひろはたのやはたまろ)なり。我が名は、護国霊験威力神通大自在王菩薩(ごこくれいげんいりきじんつうだいじざいおうぼさつ)なり。国々所々に、跡を神道に垂れ、初て顕るのみ。」

「宇佐宮託宣集に『鍛冶翁(かじのおきな)あり、奇異(きい)の瑞(ずい)を現(あらわ)して、一身八頭(の大蛇)となる』と記載された部分があり、あの一身八頭の大蛇である八岐大蛇(やまたおろち)は宇佐八幡神の姿であり、九州方言で大蛇のことを「ヤアタ」と呼ぶことなどから、八幡は「ヤワタ」と読むのが正しく、特に、製鉄と密接に関係している」富来隆

原始八幡神は蛇神だったのかもしれません。「八咫」は、「ヤタ」と読まれていますが、「八尺(やた)を訓(よ)みて、八阿多(やあた)と云(い)う」と、古事記にあります。やあたの剣(つるぎ)とやあたの勾玉(まがたま)と、播磨国風土記にあります。やあたの三種の神器はすべて蛇に還元できます。

阿多……薩摩にある私の大切な地です。

f:id:orochinomai:20201119235806j:plain

原始八幡神創祀遺跡 (学説 ) 金富神社

石見国安芸国の境にある八面山のふもとに、むかしから草刈りをしない場所がある。ここで八頭の蛇を見た人がいる。この蛇が怒る時は眼が光り、見る者は気を失うという。

八面山…大分県中津市にもある私の大切な地です。

f:id:orochinomai:20201119230143j:plain

石見國八頭蛇

宗教学者ミルチャ・エリアーデさまは、蛇は『混沌』であり、形無きものを象徴し、蛇を統御することは、形無きものから形有るものへと転移する創造の技である。形有るものとは『秩序』である。すなわち、混沌を自然とし蛇の世界であるとすれば、秩序は文化であり、人間の世界である」と、「永遠回帰の神話」のなかで述べてあります。

乞われるままに各地で舞ってきましたが、今回の奥出雲でつながりそうな感じがしております。