四股を踏むような所作で十五夜踊りを踊る(鹿児島)

十五夜行事の基本構造より

十五夜の大綱を、とぐろ状に巻いたり、蛇とみなしている事例が各地にある。また「竜神」という言葉もあるが、下野敏見氏は、竜神の概念は相当発展した文化レベルに位置するもので、農漁民の間では蛇とか大蛇と理解していたと述べ、十五夜綱に関する蛇性のものを「竜蛇」と表現している〔下野1989a、169―170〕。

下野敏見氏は泊十五夜のオドリクヤシ(踊り壊し)を次のように解き、十五夜行事が死と再生のモチーフにちなむ健康祈願・豊作祈願の行事であると述べている〔下野2005a、271〕。

十五夜の綱は蛇の象徴であり、オドリクヤシはオドリの輪や列を蛇と見ての“断ち切り”である。欠けてもまた満つる月や脱皮しても再生する蛇は、永遠不死の存在であり、こうして人々は仲秋の名月に健康祈願を祈るのである。それに月の夜は露が降り、蛇は水の主でもあって、月と蛇を祈ることは雨乞いに通ずるもので、豊作祈願の趣旨もある。」
※引用ココマデ

 

九州中南部の宮崎、熊本、鹿児島から南島にかけて、旧暦8月15日に綱引を行う。もともと綱引きは日本、朝鮮、東南アジアの地域に多く見られ、主に稲作の吉凶を占う行事であるとされてきた。また旧暦五月に竜神を迎え水神祭をし、旧暦八月に竜神を送って十五夜綱引をするのが古い竜神の祭り方であり十五夜綱引の始まりではあるまいか 山からしかし著者は十五夜綱引とそれに関する民俗を選び、古形を探り、研究をすすめていくうちに全く違った結論を得るに至った。竜神送りである。今も満月の夜に月に祈りをささげ、綱を引き、相撲に興じる人々に日本の文化と精神の神髄を見る。
※ 十五夜綱引の研究 小野重朗著より

 

 

 綱引きののち、藁(わら)でつくった「蓑笠(みのがさ)」をまとった子供たちが四股を踏むような所作で十五夜踊りを踊ります。知覧町では、十五夜綱引を終えた後に、男の子供組の者がソラヨイをします。永里の中福良では、網作りのときに用意したワラのミノ、ハカマという肩蓑、腰葉風のもの、同じくワラのヨイヨイ笠という長円錐形の帽子などを裸の上に着けて列を作って土俵に上がります。土俵の中央には大きな傘状のヤマがあり、子供頭がその中に入って指揮します。子供たちは輪を作り「サア、ヨイヤンソーシツ、ソラヨイ、ソラヨイ、ヨイ、ヨイ」と歌いながら、相撲の四股を踏むのに似た単純な動作で踊ります。踊りを何種類か踊って退場したのち、扮装を脱いで、十五夜相撲が行われます。 

 

十五夜の綱は龍蛇(水神)をイメージしており、脱皮して力を再生する海の精霊の力にあやかって健康を祈願し、集落を清めるとされます。月は満ち欠けをする再生のシンボル、蛇もまた脱皮を繰り返して生きる再生のシンボルだと考えられています。

 綱引きをせずに、子供たちが綱をかついで村の周囲を歩き、穢れを綱にたくして村を清めたあと、綱を海や川に流すところもあります。盆綱(ぼんづな)では、子供たちが新盆の家などを龍蛇にかたどった綱をかついでまわり、綱には精霊が乗ってやって来るとされています。龍蛇が異界から来訪し、村を祝福し清めたあと再び異界へ戻っていくという形をとるところもあります。綱を担いでまわる形態は、綱を引き合う形態より古いと考えられます。綱担きと綱引きずりだけで綱の引き合いはしないところも多くあります。鹿児島湾には、十五夜綱が水神の竜であるという伝承があり、十五夜には水神の龍が集落をまわって秋の豊作を祝福して、水界の海や川に帰っていくものと考えられています。

 また、鹿児島には、月読尊は桜島で出生したという口碑があるそうです。

 人の力士同士の最古の戦いは、野見宿禰當麻蹶速当麻蹴速)の「捔力(すまいとらしむ・スマヰ)」とされています。

「朕聞 當麻蹶速者天下之力士也」

「各擧足相蹶則蹶折當麻蹶速之脇骨亦蹈折其腰而殺之」

 蹴り技の応酬により、宿禰が蹴速の脇骨を蹴り折り、倒れた蹴速にさらに踏み付けで加撃して腰骨を踏み折り、絶命させたとされます。

日本書紀 垂仁天皇7年(紀元前23年)7月7日 (旧暦)

今年の年末、鹿児島にて、四股を踏むような所作=醜(しこ)足で舞うことになりそうです。「月(太陰)」を象徴する龍蛇の舞を奉納したいと考えております。