金屋子神は八幡神?

玉鋼の杜 金屋子縁起と炎の伝説  36P~

石塚尊俊氏は、金屋子神の縁起書や、口伝から、金屋子神八幡神であろうかと説いておられる。火は日と音の一致が示しているように、火の神は元来日の神である。金屋子神は通常女神であったとされているが、だが、それはこれを祀る者が女であったからで、もとは若々しい男神であった。それは火の神であって、時には雷の形をもって降臨せられた。旱天雨を乞うとき、雨とともに天降りましたというのは、もともとこの神が日の神であり、雷の形をもって降臨せられる神だったからにほかなるまい。それは時には火雷神の丹塗の矢のごとく、矢の形をもって現じたまうこともあったろう。だから神主安部も弓矢をもって迎えた。突如として狩の記事を出しているのは、もともと狩具が弓矢であり、弓矢は本来火の神をまつる祭具にほかならない。

八幡信仰は、「玉依姫考」に説かれているように、母子信仰に始まっている。即ち、八幡三所の一所たる比咩神とは多くの場合玉依姫で、「依」は「魂の依りつく意」で、八幡神は、そうした、大神に仕える巫人と御子神との母子三柱の神を中心とした信仰から始まったと説き、その証左として、大隅八幡宮の縁起を揚げておられる。これと変わらぬ母子信仰本来の形に近い話を、赤来町の旧県者「出雲赤穴八幡宮」において発見したとして、柳田先生の説かれる八幡神話より古形のものがあった。又、この八幡宮が鎮座する場所の小字が「金屋」となっている。金屋とは、いうまでもなく、金屋子信仰の伝承者・炭焼小五郎の撒布者であった。

八幡神が本来鍛冶神であることは、「炭焼小五郎」に書かれて以来、今日通説になっている。ここに金屋子の降臨譚を持ち出してくるとき、それがやはり母子信仰のひとつの流れであり、金屋子信仰そのものが、本来やはり八幡信仰と同系であったことが推察される。八幡信仰を運んだものが金屋であり、しかしてこの神の名が金屋子神であることを考えるとき、当然に因縁の浅からぬものを感じざるを得ぬのである。のみならず、降臨譚には神を運んだものが白鷺だったと伝えている。白鷺とは八幡の遺し女であり、かつ、朝日長者の福神でもあった。

八幡信仰は、宇佐に始まって後全土に拡まり、それと同時に性格が全く一変した。しかるに金屋子神は、今日、中国山地を頂点として余影は、奥州・関東にも及び、今日地方における鍛冶神としては最も広い領域を占めている。なぜ宇佐に残らずに、もっぱら中国山地で発達するに至ったか、その答は単純である。つまりこの地のもつ自然がそれを支えたのである。ここには良質ともに豊富な砂鉄があり、それによるいわゆる鑪吹の技術が古来最も盛んであったからにほかならない。いい換えれば、その信仰の基盤とも称すべき条件が、ここではもっとも安定していたということが、ついにこの地をして鍛冶神信仰の中心地たらしめ、また、比田の杜をして諸国同名神社の総本祠たらしめた根本的な理由であった。のみならず、この地は都に遠く、八幡神が国家第二の宗廟として朝野の尊信を受けられたごとき、中央からの影響を蒙ることが少なかったということも、これをして比較的純粋なまま火の神の伝統を継がしめた所以ではなかったか、と述べておられる。

宇佐八幡神の由来は甚だ特異で、「足助八幡宮縁起」によると次のような由来譚があるとされれている。中略。宇佐八幡の神格は元来鍛冶神であり、かつ、まさしく童形の神なのである。

まだたたら作業の幼稚であった時代に、火の神(日の神)の信仰を奉じて、山野に炭を焼き小鉄を探して移動した一団の人々が持ち歩き拡めたものが、金屋子信仰のいまひとつ以前のものとしての八幡信仰であったろうとことを申し添えておく。雌雄の和合は死の蘇生でもあったからして、黄金が俵に包まれてあったという九州宇佐の縁起談もまたこの金屋子信仰と無関係ではなく、隠された原始信仰の一面を物語るものであろう。

この長者の話の起源が、もし自分の想像する如く、宇佐の大神の最も古い神話であったとすれば、ここに初めて小倉の峰の菱形池の畔に、鍛冶の翁が神と顕れた理由もわかる。

八幡神について、二宮正彦氏は八幡大神宇佐神宮も起源について分類・列記しておられる。まず、固有信仰に分類される例として、兎狭国造を祖神とする氏神説、神功皇后新羅進攻に準拠する誉田別尊応神天皇)説、神功皇后を母、誉田別尊を子とする母子神説、八幡大神の顕現された遺跡を重視する巨石崇拝説、八幡大神東大寺大仏造立での神助から類推する鍛冶神説などが挙げられる。

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大蛇乃舞

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