50代になっても、自分自身が絶賛される(わかりやすいかたちで褒めてもらう)ことを期待するのは幼稚で未成熟な証左かもしれません。

 50代にもなって、他人に褒められたい、それも、わかりやすいかたちで褒められることを望み、褒められないと気が済まないという人がいます。人は、成熟が進むほど褒められることを求めなくなります。 

 乳幼児は存在するだけで肯定してもらえます。小学校低学年なら、ルールやマナーを守れていれば褒めてもらえ、守れないと叱られます。高校生は、褒められることは少なくなります。年齢が高くなればなるほど、わかりやすく褒めてもらえる場面は少なくなってきます。

 50代にもなると、「えらいねー」「すごいねー」とか褒めてもらう機会はほぼなくなります。社交辞令で褒められることはありますが、儀礼的なものです。やたら褒めてもらいたがる50代、褒めてもらえないと怒っている50代というのは、どこか幼稚で未成熟な印象を受けると思います。

 50代は、自分が属する社会の中でお互いに基本的な信頼感が抱けていることだけで十分なはずなのです。特別に褒めてもらわなくても、万雷の拍手に包まれていなくても、普通に充足感に満たされているものです。別に自分自身が褒められなくても、後輩の成長を眺めているだけでも充たされるものです。

 50代になっても、自分自身が絶賛されることを期待し、そうでない肯定を肯定と感じられないのはナルシシズムだと思います。何をやっても褒められることがなく、承認欲求をこじらせ、「褒めてもらえなくて不安になる」という状況は、危機的なのかもしれません。ミドルエイジ・クライシス=中年の危機と呼ばれている、精神的に不安定な状態もそのひとつのような気がします。

 ユングは、一貫したライフサイクルという概念を生み出し、特に、人生の後半における成人の発達に着目しました。人間の一生を太陽の運行になぞらえ、40歳前後を「人生の正午」と呼び、40歳前後を頂点として、人生を前半と後半に区分しました。前半期の心の発達が、職業を得て社会に根づくことや、家庭を築くことなど、外的世界へ自己を適応させていくことであったのに対して、人生後半期の発達は、自己の内的欲求や本来の自分の姿を見出し、それを実現させていくことによって達成されると考えました。

 人生の前半期では獲得的・上昇的変化だったものが、中年期には喪失・下降的変化として体験されます。自己の内的欲求や本来の自分の姿を見出し、それを実現させていくことが重要なのかもしれません。自己の限界を自覚し、達成することが出来なかった物事への深い失望や後悔を味わいつつ、前に進むのが楽だと思います。

悪性のナルシシズムと良性のナルシシズム~パフォーマーは悪性のナルシシズムを克服した方がいい。

悪について エーリッヒ・フロム

狂気とナルシシズム

正気と狂気との境界線にあるナルシシズムの特殊な例は、権力が異常に大きくなった人に見出される。

精神病は絶対的ナルシシズムの状態であり、外的事実と全く断絶し、そして自分自身を現実に対する代償とする。

彼は全く自己のことで満たされ、自分自身に対して己が神であり世界そのものとなる。

 

ナルシスティックな人の特徴

ナルシスティックな人は、どうして見分けられるのか?

それは自己満足のあらゆる徴候があらわれているような人である。

一般に彼は他人の言葉を聞いていないし、ほんとうの関心を示さない。

いかなる批評に対しても過敏である。

ナルシスティックなオリエンテーションは、内気と謙遜の態度の背後にかくされている可能性が多い。

外界に対して真の関心を欠如することは、ナルシシズムのあらゆる形に共通である。

ナルシシズムの程度が強くなればなるほど、ナルシスティックな人は失敗の事実を認めたり、他人の正当な批判を受け入れたりすることができなくなる。

 

ナルシシズムの病理

①合理的判断が歪められる。自分と自分のものは過大評価し、他のものはすべて過小評価する。

②批判に対し感情的に反応する、

抑うつの感情。ナルシシズムがひどく傷つけられ維持できなくなると、彼のエゴは崩壊する。この崩壊に対して内部で起こる主観的反射がうつの感情。

 良性のナルシシズムの場合、その対象となるのは、その人の努力の結果。人を仕事にかりたてるエネルギーはだいたいがナルシシスティックな性質をもつものの、仕事そのものが現実とのかかわりを必要とするという事実によって、ナルシシズムは限界を超えないよう抑えられている。良性のナルシシズムの特徴はすべて、成果に目を向けているということ。

 悪性のナルシシズムの場合、その対象はその人が持つものである。身体、外見、健康、富など。

 

集団的ナルシシズムの病理

①客観性と合理的判断の欠如、

②自分が属する集団は優秀で、他はすべて劣っているというイデオロギーに基づく「満足」

③集団はそのナルシシズムを自己と同一視できる指導者に投影し、強力な指導者に服従する。

 

 ナルシシスティックな人は、他人の現実が自分の現実と違うことを認識できません。ナルシシスティックなこだわりがあると、外の世界へは関心がほとんど向けられません。ナルシシスティックな性向はつつしみや謙遜の陰に隠れていますが、どのような形で現れようと、外すべての形のナルシシズムにおいて、外の世界への真の興味が欠けています。

 ナルシシズムには良性と悪性があります。良性のナルシシズムの場合、その対象はその人の努力の結果です。そのため、仕事そのものが現実とのかかわりを必要とするため、セルフチェックが働き、結果としてナルシシズムは限度を超えないよう抑制されています。

 悪性のナルシシズムの場合、その対象はその人がしたことや生み出したものではなく、その人が持つものとなります。仮初めの自己の偉大さを維持するために、どんどん現実から自分を分離していきます。

 

ナルシシズムの7つの大罪(ホッチキス・サンディー)

①恥知らず

恥は、すべての不健全なナルシシストの下に潜む感情である。彼らは健全な方法で恥を処理できない。

②呪術的思考

ナルシシストは「魔法の思考」として知られる認知の歪みや錯覚を使って自分自身を完璧と見なす。彼らはまた、他人に恥を「掃き出す」ために投影を用いる。

③傲慢

自我収縮を感じているナルシシストは、他人の衰退、脱走、堕落を知ることで、自我を「再膨張」させることができる。

④羨望

ナルシシストは「軽蔑」を使用して他人の存在や業績を最小化することで、他人の能力に直面した際に優位性を確保する。

⑤権利意識:自分が特別であると考えているため、ナルシシストは特別有利な扱いやノーチェック・パスなど、根拠のない期待をしている。彼らは求める承服がなされないと、その優位性への攻撃だとみなすため、周囲からは「厄介な人」「困難な人」とみなされている。ナルシシストへの意志の抵抗は、自己愛の傷つきとして自己愛憤怒を引き起こす。

⑥搾取

他者の気持ちや関心に関わらず、ナルシシストは常に他者を搾取する存在であり、それは様々な形となる。それはしばしば抵抗が難しいか、不可能な立場の人をターゲットとする卑劣なものになりうる。時には従順になるがそれは本心からではない。

⑦境界線の不全:ナルシシストは他者との間に境界線があることを理解していない。他人とは別個の存在であり、自分の延長線ではないことが分からない。己のニーズを満たさない他人は、存在しないのと同じである。ナルシシストに自己愛を供給する人々は、ナルシシストの一部として扱われ、主人の期待に応えることが要求される。ナルシシストの心には自己と他者の境界はない。

 

 悪性のナルシシストのパフォーマンスは、一見して幼稚(やり方などが大人らしく成長してはいないこと。子供っぽいこと。)です。パフォーマンスに限らず、装束や発言、態度、体型なども幼稚です。悪性のナルシシスト集団のパフォーマンスは、お遊戯会とか学芸会のように見えます。本人たちは、呪術的思考によって認知の歪みや錯覚を使って自分自身を完璧と見なしているので、失敗の事実を認めたり、他人の正当な批判を受け入れたりすることはありません。

 誰も注意はしてくれないし、注意されたところで、ナルシシズム全開なので行動の修正はしません。結果として、「不幸な人たち」と認識されるようになってしまいます。自分たちで自分たちを賛美するという道化になってしまうことになります。「軽蔑」を使用して他人の存在や業績を最小化することで、他人の能力に直面した際に優位性を確保しようとするため、新しい能力の獲得も難しくなります。

 自分がナルシシズムをやらかしている自覚がないと、不幸に歯止めがかからなくなります。パフォーマーは、悪性のナルシシズムの克服を心がけた方がいいと考えています。

日田市豆田町八阪神社さまにて舞を納めさせていただきました。

2022/11/19に、日田市豆田町八阪神社さまにて舞を納めさせていただきました。

2022/11/19 日田市豆田町八阪神社神社奉納舞 花月水神

2022/11/19 日田市豆田町八阪神社神社奉納舞 花月水神

2022/11/19 日田市豆田町八阪神社神社奉納舞 花月水神

2022/11/19 日田市豆田町八阪神社神社奉納舞 花月水神

2022/11/19 日田市豆田町八阪神社神社奉納舞 花月水神

2022/11/19 日田市豆田町八阪神社神社奉納舞 恵比須魚釣舞

2022/11/19 日田市豆田町八阪神社神社奉納舞 恵比須魚釣舞

2022/11/19 日田市豆田町八阪神社神社奉納舞 恵比須魚釣舞

2022/11/19 日田市豆田町八阪神社神社奉納舞 恵比須魚釣舞

母方の故郷なので、御先祖さまたちに見守られている感があってしあわせでした。

揖宿神社さまに、舞を納めさせていただきました。八衢(猿田彦)、八咫(大蛇)、龍王。

揖宿神社さまに、舞を納めさせていただきました。

10月15・16日(土・日)揖宿神社さまにて、奉納演武・奉納演舞させていただきます。

www.ibusukijinsha.com


10月15・16日(土・日)揖宿神社さまにて、奉納演武・奉納演舞させていただきます。

当初、クローズドイベントの予定でしたが、オープンイベントとなりました。

みなさまのお参りを、お待ちしております(観覧無料です)。

 

10月15日17:00より

剣術演武(黒田藩伝柳生新陰流

〇演武

黒田藩伝柳生新陰流

中国武術演武(神戸武術隊)

◯対練

〇太極剣

◯八極六合花槍

八極拳行者棒

蟷螂拳

演武

朗読(大村奈々)

古事記物語

創作演舞(安部塾)

〇八衢(やちまた)~天鈿女命・猿田彦命

〇八咫(やた)~素戔嗚尊・八岐大蛇

〇魚釣舞~大己貴神・恵比須

〇火中出産(炎舞)~木花開耶姫・磐長姫・火産霊軻遇突智(ほむすびかぐつち)

炎舞

10月16日13:00より

剣術演武(黒田藩伝柳生新陰流

〇演武

〇試斬(巻藁斬り)

黒田藩伝柳生新陰流

中国武術演武(神戸武術隊)

◯対練

〇太極剣

◯八極六合花槍

八極拳行者棒

蟷螂拳

中国武術

朗読(大村奈々)

古事記物語

朗読

創作演舞(安部塾)

〇岩戸(いわと)~天鈿女命・天手力雄神

〇魚釣舞~大己貴神・恵比須・亀神

〇鹽盈珠(しほみつたま)・鹽乾珠(しほふるたま)~龍王

岩戸

 今回より、音響・照明ともに新調いたしました。迫力の音とシンプルなライティング、ファイヤーと、演出も楽しんでいただけたら嬉しく思います。

10月15・16日(土・日)、揖宿神社さまにて創作舞を納めさせていただきます。

10月15・16日(土・日)、鹿児島県指宿市東方の揖宿神社さまにて、創作舞を納めさせていただきます。

演目は、

■天之八衢(あまのやちまた)

 八衢とは、天上で、数多くの道が分かれるところ。高天原から葦原(あしはら)の中つ国に下る道の途中にあったとされます。天孫邇々芸命(てんそんににぎのみこと)が天降りされようとするとき、道をふさぐ神があったので、天宇津女命に問わせると猿田彦神(さるたひこのかみ)で、天孫を先導するために出迎えに来たと言いました。天宇津女命の舞と猿田彦神の舞。

■八咫(やた)

 酒を飲んで酔った大蛇(おろち)と神(=怜生くん)による立ち廻りの舞。榊を手にした大蛇と剣を手にした神が舞います。

■小さき太陽

 天照大御神(あまてらすおおみかみ)が天の岩戸の中にお隠れになったとき、世の中すべてが常闇(とこやみ)となりました。そこで神々は集まって相談し、天宇津女命を呼んで舞い躍らせました。うつぶせにした桶の上に乗り、背を反り胸乳をあらわにし、裳の紐を股に押したれて、低く腰を落して足を踏みとどろかし、力強く艶のある動作で舞い踊って、神々は大笑いしました。岩戸は開かれ、再び世の中が明るくなり禍も無くなり平和が戻りました。

■恵比寿大黒

 恵比須は、鯛を釣り上げ寿福をあらわすおめでたい(鯛)舞です。鯛釣りの前に撒き餌として投げる飴には福が宿るとされており、拾った人にはサチが訪れるとされます。大黒は、赤い大黒頭巾(ずきん)をかぶり、手に打ち出の小槌(こづち)を持って舞います。福運をもたらすとされています。大己貴命(おおあなむちのみこと おほあなむち)は、国の神の首魁(しゅかい)。「古事記」では大国主神(おおくにぬしのかみ)の一名とされます。「出雲風土記」には国土創造神として見え、また「播磨風土記」、伊予・尾張・伊豆・土佐各国風土記逸文、また「万葉集」などに散見します。後世、「大国」が「大黒」に通じるところから、俗に、大黒天(だいこくてん)の異称ともされました。大穴牟遅神(おおあなむぢのかみ)。大汝神(おほなむぢのかみ)。大穴持命(おほあなもちのみこと)。

塩土老翁(しおつちのおじ)

 「シオツチ」とは潮流をつかさどる神の意です。降臨した天孫に「国ありや」と問われて「国あり」と答えた笠狭御崎(かささのみさき)の事勝国勝神(ことかつくにかつかみ)の亦名(またのな)としています。天孫・山幸彦(やまさちひこ)を竹製の籠(かご)に乗せて海神の国への道を教えます。この神は隼人が信奉した海神であろうと推定されています。亀とともに舞います。

■浮杖(フロウワンド)

 「ワンド(wands)は、棒、杖、棍棒、ロッド、笏を象り、火を象徴しています。宙に浮く杖が、炎舞へと誘います。

■火結(ほむすび)

迦具土神(かぐつちのかみ)=伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)の子。火の神。火産霊神・火結神(ほむすびのかみ)。軻遇突智(かぐつち)。炎棒を手に舞います。

■火中出産(炎舞)

 みきさんの舞です。

古事記
 木花之佐久夜毘売の出産 木花之佐久夜毘売は一夜を共にしただけで身篭った。それを聞いた邇邇藝命は「たった一夜で身篭る筈はない。それは国津神の子だろう」(「佐久夜毘賣 一宿哉妊 此胎必非我子而為國津神之子」『古事記』)と言った。

木花之佐久夜毘売は、「この子が国津神の子なら、産む時に無事ではないでしょう。天津神の子なら、無事でしょう」(「吾妊之子 若國津神之子者 幸難產 若為天津神之御子者 幸產」『古事記』)と誓約をし、戸のない御殿を建ててその中に入り、産む時に御殿に火をつけた。天津神の子であったので、無事に三柱の子を産んだ。

火が盛んに燃えた時に生んだ子を火照命、火が弱くなった時の子を火須勢理命、火が消えた時の子を火遠理命、またの名を天津日高日子穂穂手見命という。

日本書紀 第九段本文

その国に美人たおやめがいて、皇孫がこの美人に、「おまえは誰の子か」と尋ねると、「妾やつこは天神あまつかみが大山祇神を娶って生んだ子です」と答えた。名を鹿葦津姫かしつひめという、とある。皇孫が彼女を気に入ると、一夜にして妊娠した。皇孫は信じられず、「また天神といえども、何ぞよく一夜の間に人をして娠はらみ有らせんや。汝が懐はらめるは必ず我が子に非あらじ」と言った。

そこで鹿葦津姫は怒り恨んで、戸口のない小屋を作ってその中に籠り、誓いて、「妾が娠める、若し天孫あめみまの御子に非あらざれば必ず焼け滅ほろびぬ。もし本当にに天孫の子ならば、火も害そこなうこと能あたわじ。」と言って、火をつけて小屋を焼いた、とある。以下がその三子の詳細である。

最初に昇った煙から生まれ出た子:火闌降命・隼人はやひと等の始祖
次に熱が静まって生まれ出た子を彦火火出見尊
次に生まれ出た子を火明命・尾張連をはりのむらじ等の始祖
とある。

日本書紀 第九段一書(二)

 その後、神吾田鹿葦津姫、皇孫を見て「妾は天孫あめみまの御子を娠はらめり。私に生むべからず、」と言うと、皇孫は「たとえ天神あまつかみの御子といえども如何いかにぞ一夜にして人をして娠はらませんや。抑はた我が御子に非あらざるか。」と言った。それを聞いた木花開耶姫【何故か神吾田鹿葦津姫から木花開耶姫に変わっている】は大いに恥じ恨んで、、戸無き室を作りて誓いて「我が娠はらめる、これもし他神あたしかみの子ならば、必ず幸さちあらず。これ實まことに天孫の子ならば、必ずまさに全またく生まれなん。」と言いその室の中に入り火を以ちて室を焚やく、とある。

以下が火中出産の三子の詳細である。

焔が初め起こる時に共に生みし御子:火酢芹命ほのすせり
次に火盛りなる時に生みし御子:火明命ほのあかり
次に生みし御子:彦火火出見尊ひこほほでみ、または火折尊ほのおり
とある。

日本書紀 第九段一書(三)

 最初に炎ほのおが明るい時に生まれた子が火明命ほのあかりである。
次に、炎ほむらが燃え盛る時に生まれた子が火進命ほのすすみである。または火酢芹命ほのすせりと言う。
次に、炎が鎮まった時に生まれた子が火折彦火火出見尊ほのおりひこほほでみのみことである。
この併せて三子みはしらのみこは火も害そこなうことなく、母いろはもまた少しも損う所無し。そして竹の刀でその子の臍の緒を切る。その竹刀を棄てし所、後に竹林と成る。そこで、その地を竹屋たかやと言う。

その時に神吾田鹿葦津姫が卜定田うらへたを以ちいた田を狭名田さなだと言う。その田の稲で天甜酒あめのたむさけを釀かみて嘗にいなえを催した。また、渟浪田ぬなたの稲を用いて、飯いいと作り嘗を催した。

 

 今回は、音響と照明(15日)にこだわります。舞面や衣装も、良いものをそろえました。奉納まであと少し、コツコツ積み上げたいと思います。