大蛇之儛(舞ひ)

大蛇面をつけて舞う儛人のブログ

隼人族の風俗舞のすがた~黙劇・無言劇~声を用いず,身体の動きや顔の表情のみを表現手段とする芸能。

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隼神 空幸彦 愛称「ぶさお」

【芸能】より
記紀の海幸・山幸(うみさちやまさち)説話に見えるウミサチヒコがヤマサチヒコの前で溺れるさまを演じたという所作などは,宮廷の祭儀の折に行った隼人族の風俗舞のすがたを伝えるものである。またこの時代,允恭天皇の大葬に新羅(しらぎ)王が楽人(うたまいびと)80人を献ったとの《日本書紀》の伝えのあるのをはじめ,612年(推古20)には百済(くだら)人によって中国の伎楽がもたらされ,さらに中国の舞楽や散楽が次々に伝来して宮廷および周辺の寺院などの歌舞は一挙に華麗なものとなった。701年(大宝1)には雅楽寮の制が成り,外来楽を基盤としての楽人,舞人の養成が国家的規模で行われ,平安時代には管絃,舞楽(雅楽)が宮廷や大寺の儀式に欠かせぬものとなった。出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版

■パントマイム【pantomime】


演者が声を用いず,身体の動きや顔の表情のみを表現手段とする芸能。単に〈マイムmime〉ともいい,〈黙劇〉〈無言劇〉などの訳語・用語も用いられる。


[パントマイム前史]
 pantomimeという言葉は,その語源をさかのぼれば,古代ギリシア語のpantōs(すべて(に))とmimos(ものまね)の合成語pantomimosであり,この言葉自体は古代ギリシアの多くの文献に見ることができる。

 しかし,このような〈ものまね〉あるいは〈呪術的模倣所作〉とでも称すべきものは,周知のように,演劇一般の〈始源的形態〉にほぼ共通して見ることができる重要な一構成要素であり,そのようなものの一種として,古代ギリシアにおいては先のmimos(あるいはpantomimos)という言葉で表現される〈ものまね〉を中心とした座興的な雑芸(これを演劇史で〈ミモス劇〉などとも呼ぶ)が行われていたことは事実であるにせよ,それが今日のパントマイムに通じる一つの独立した芸能ジャンルであったとは言いがたく,演劇史では,ふつうパントマイムの起源を,古代ローマのパントミムスpantomimusに求めることが行われている。


出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版

 

マイム?パントマイム?」より

 マイムとは紀元前6世紀くらいまでさかのぼってドリアン地方でおこなわれていたドリアンマイムというのが一番古くまでさかのぼれるマイムの原型ですが、その頃はマイムとは雑多な芸の総称のようなものでした。つまりアクロバットとか綱渡りとか歌手、あるいは台詞役者といった雑芸を総称してマイムとひとまとまりに呼んだらしいのです。もともとこのマイム、mime とはmimosという言葉からきており、その意味はmimesthaiという動詞の動作主名詞(agent noun,つまりその動作をする主体)でした。そしてこのmimesthai という動詞がまた面白い起源をもっていて、なんと初期においては声帯模写をすることを意味していたというのです。つまりマイムの原型は形態模写ではなく、声帯模写だったのかもしれません。自然の音や動物の鳴き声を模倣する芸であった可能性もあるのです。やがてこれが形態模写を意味するようになり、その行為を行う者をmimosとよびました。あるいはその行為自体もmimosとよばれました。真似をする、模倣をするという意味あいにおいては一般的な役者を指す言葉であったともいわれます。つまり決定的にパントマイムと違うのはその芸はかなり雑多であり、大いに音や声を使った芸であったという事です。

 そういった意味合いにおいては日本の平安時代前後に中国あたりから伝えられた散楽とも似ていると思います。この散楽も様々な雑多な芸が寄り集まったものだという事です。やがてこの散楽が猿楽となり、そして田楽などと融合することによって現在の能楽の原型ができたといわれています。

引用ここまで

マイムとパントマイムの違い」より

 アリストテレスの『詩論』の芸術論の定義「現実の根源を知るために、虚の場において実を真似または模写すること」の定義の中核をなすミメーシス(真似すること)から始まり、ローマ時代になってからは、mimeまたはpantomimeの2つの呼称が演者自身か、あるいは観るものからその内容によって交互に代って呼称されたのです。

 panvitanという薬がありましたが、それはpan-vitaminを略したもので「すべてのヴィタミンを含んでいる」ことを示しています。panはpantoで「すべて」です。それでmime(真似する演技)もpantomime(すべてを真似する)も同じなのです。

 原初のミメーシスから分離したダンスもパントマイムも演劇も根源的なものを失っているということです。

 能楽の出発の“猿楽”も、あれは猿真似でなく、“実”を“虚”の場でミメーシスしたことでしょう。

 猿楽は散楽が訛ってそのようになったものとも聞きます。散楽は大陸から来ました。その基はシルクロードを渡ってもたされたヘレニズム文化ともいいます。散楽は現在の能楽とは違う様々な要素がありましたが、その核となるものは「物真似」と呼ばれるマイム芸だったようです。室町期に「幽玄」という要素が入り現在はそちらのほうが能楽らしい、といった感じですが、実際は「物真似」を主とした表現がたくさん残っており、その表現もとても豊かなものだと感じております。

引用ここまで

■散楽

 散楽とは、中国から伝わった、滑稽な物まね、曲芸、呪術など多種多様な芸一般を広く指します。のちに散楽が発展して能・狂言の元になりました。出典 シナジーマーティング(株)日本文化いろは事典について

■さんがく【散楽】
 古代日本に伝来した大陸の芸能。物まね,軽業,曲芸,幻術などを中心とする娯楽的な見世物芸で,百戯,雑技ともいわれた。渡来以前の日本にも俳優(わざおぎ)や侏儒(ひきうど)の芸能が宮廷に集中されたことがあったが,新たに伝わった散楽は令制では散楽戸で伝習された。散楽に関する文献は少ないが,正倉院蔵〈弾弓図〉〈散楽策問〉《信西古楽図》などから想像するに,軽業や曲芸,奇術や幻術,滑稽・物まねの三つがおもな内容であったと思われ,簡単な楽器で伴奏されたと推定される。出典 株式会社平凡社世界大百科事典 第2版

■散楽の歴史

 上古に大陸から輸入された散楽(さんがく)は,曲技,歌舞,物まねなど雑多な内容を含むものだったらしいが,平安時代に笑いの芸能に中心が移り,発音も〈さるがく〉と変わり,文字も猿楽,申楽などと書かれるようになった。その発達を遂げたものが狂言である。出典|株式会社平凡社世界大百科事典 第2版

■能・狂言の先祖
 もともと散楽は寺社の祭礼で演じられ、国土安穏〔こくどあんのん〕・天下泰平〔てんかたいへい〕を祈祷する事を主な目的としていました。 その後いつしか、一般庶民の娯楽となり、散楽が訛って猿楽となりました。大道芸としての道を歩んだ猿楽は、散楽よりもより大道芸的な要素の濃いものになり、また、猿楽とは別に、散楽と農村で行われていた楽芸とが結びついてできた、「田楽」というものが現れました。この芸能は、もともと農村の田植えを囃し立てる為に生まれ、発展しました。その後、猿楽と田楽は現在の能・狂言へと向かって融合・発展していきました。日本文化いろは事典

■起源・歴史散楽が訛って猿楽に
中国の唐の時代に雅楽と共に日本に伝わりました。
当時の日本は奈良・飛鳥時代で、楽戸という国立の機関を作り、国を挙げて散楽の発展に力を入れました。寺社などの祭礼で演じられたり、貴族などの上流階級の間での娯楽として普及しました。その後、平安時代の訪れと共に、楽戸は廃止されますが、散楽は一般庶民の間に伝わり、広く人気を集め、寺社の祭礼で演じられたり、大道芸として演じられたりするようになりました。いつしか散楽が訛って、猿楽となり、それが現在の能・狂言の元祖になりました。日本文化いろは事典

■演目多種多様な芸
散楽の内容は、主に曲芸や軽業、物まね、呪術、奇術などです。
今の中国雑技団のような曲芸や軽業〔かるわざ〕、猿の物まね、「火を吹く術」「刀を呑む術」といった呪術を見せたりと、多種多様な芸がありました。散楽は日本古来の芸能の影響を受けて、やがて猿楽と言う芸能に発展し、そこから台詞と仕草による滑稽な物まね芝居が「狂言」へ、音楽と舞踊による活劇が「能」になりました。日本文化いろは事典