満珠・干珠は潮の干満を支配する珠にして、龍宮城の宝物と伝ふる所なり。

【潮満瓊・潮満珠

潮を満ちさせる呪力があるという玉。満珠(まんじゅ)。しおみつに。しおみつたま。

【潮涸瓊・潮干珠】

潮をひかせる効力をもつ玉。干珠(かんじゅ)。しおひるに。しおふるたま。

古事記(712)上 「塩盈珠(しほみつたま)を出して溺らし、若し其れ愁ひ請(まを)さば、塩乾珠(しほふるたま)を出して活(い)かし」

日本書紀「海神乃ち彦火々出見尊を延きて、従容語して曰く、天孫若し郷に還らんと欲せば、吾れまさに送り奉るべし、便ち得る所の鉤を授る、因りて誨へまつりて曰く、此の鉤を以て汝の兄に与へたまふ時に、則ち陰に此の鉤を呼びて、貧鉤と曰ひて然して後に与へたまへ、復た潮満瓊及潮涸瓊を授りて誨へまつりて曰く、潮満瓊をつけば則ち潮忽ち満たん、此を以て汝の兄を没溺らせ、若し兄悔いて祈まば、還つて潮涸瓊を漬けば、則ち潮自ら涸む、此を以て救ひたまへ、かくなやまし給はゞ則ち汝の兄自ら伏ひなん。」  

 

 山の猟が得意な山幸彦(弟)と、海の漁が得意な海幸彦(兄)。兄弟はある日猟具を交換し、山幸彦は魚釣りに出掛けましたが、兄に借りた釣針を失くしてしまいます。困り果てていたところ、塩椎神(しおつちのかみ)に教えられ、小舟に乗り「綿津見神宮(わたつみのかみのみや)」(又は綿津見の宮、海神の宮殿の意味)に赴きます。

 海神(大綿津見神)に歓迎され、娘・豊玉姫(豊玉毘売命・とよたまひめ)と結ばれ、綿津見神宮で楽しく暮らすうち既に3年もの月日が経っていました。山幸彦は地上へ帰らねばならず、豊玉姫に失くした釣針と、霊力のある玉「潮盈珠(しおみつたま)」と「潮乾珠(しおふるたま)」を貰い、その玉を使って海幸彦をこらしめ、忠誠を誓わせました。この海幸彦は交易していた隼人族の祖と考えられています。

海神「兄が攻めて来たら鹽盈珠で溺れさせ、苦しんで許しを請うてきたら鹽乾珠で命を助けなさい」
 火照命が荒々しい心を起こして攻めてきました。すると火遠理命は塩盈珠を出して溺れさせ、火照命が苦しんで許うと、塩乾珠を出して救いました。これを繰り返して悩み苦しませると火照命は頭を下げて、火遠理命を昼夜お守りすると誓いました。

 

 草部吉見には、日子八井命が「火の玉(乾珠)と水の玉(満珠)」という両玉(珠)をもって来た」という伝承があります。水の玉には雨を降らせる力が、火の玉には日照りをもたらす力があったとされ、命はこの両玉により自在に天気を操り、阿蘇の地に農業を広めたそうです。

 

 満珠・干珠は潮の干満を支配する珠にして、龍宮城の宝物と伝ふる所なり。伝へて曰く、神功皇后三韓征伐の時、諸神を鹿島に集めて評定す、その時磯良というもの獨り到らず因って神楽を奏せるに、磯良始めて到る、曰く「予九海に入りて年久しく魚類と雑居して風貌甚だ陋、故に到らざりしも、今神楽の音に導かれて来るのみ」と、是に因って満珠干珠を磯良に求む、磯良即ち龍宮に入り之を求めて来りて献ず。皇后黄石公の兵書と共に之を身に体して三韓に渡る、三韓の兵海上に防ぐを見るや、干珠を投じて干潟とし、その兵の船を下るや、満珠を投じて満潮とし、遂に敵兵を溺死せしめたりという。凱旋の後この二珠を紀州日前の宮に納む。

 

 蒲池媛(かまちひめ)は、神功皇后三韓征伐に従い、満珠干珠の両玉で潮の満ち引きを操り、皇后軍を勝利に導いたとされます。蒲池媛は海人の血をひきます。満珠は宇土郡浦神社に、干珠は草部吉見神社に祀られたとされます。阿蘇家伝書には満珠・干珠は阿蘇山玉嶽に納めるとされます。