流浪・漂泊・遍歴の遊芸民~芸能の原点は、舞い、歌い、踊ることにより、神々の世界と交流し、「狂う」ことです。

その昔、民衆を楽しませた「芸能」の本質には『流浪性・漂泊性』がありました。かつての民俗社会では、正月や節分などに芸能者が各家を訪れ、祈祷をし、おめでたい言葉を唱える行事が行なわれていました。日本の民間芸能・民間信仰は漂泊民抜きには語れません。

漂泊民と定住民との分化があらわれてくるのは、農業の開始以後です。14世紀ごろまでは、その区別は必ずしも明確でなく、漂泊民と定住民の関係は流動的でした。漁労民と海民、狩猟・採集民と山民、さらに芸能民、呪術者、宗教者、商工民等が、山野河海で活動し、道を通り、市で交易活動を展開する限りにおいて、彼らは漂泊民、遍歴民として姿を現しましたが、その根拠地においては若干の農業に携わる場合が多かったようです。釣糸を垂れ、網を引く海人(あま)や斧を持つ山人、遊行女婦(うかれめ)や乞食人、山林に入り、道路を遊行する聖(ひじり)、さらに時代を下れば廻船人、塩売・薬売から鋳物師(いもじ)にいたる商工民、馬借・車借などの交通業者、遊女・傀儡(くぐつ)等の芸能民などは、みなそうした人々でした。

まれびと より抜粋

折口信夫さまは、「まれびと(稀人・客人)は、時を定めて他界から来訪する霊的もしくは神の本質的存在を定義する」としました。外部からの来訪者(まれびと=異人)に宿や食事を提供して歓待する風習は、各地で普遍的に見られました。この風習の根底には異人を異界からの神とする「まれびと信仰」があったと考えられています。1929年(昭和4年)、折口信夫さまは「客人」を「まれびと」と訓じて、本来は「神」と同義語であり、その神は常世の国から来訪することなどを現存する民間伝承や記紀の記述から推定しました。常世(とこよ)は死霊の住み賜う国であり、人々を悪霊から護ってくれる祖先が住むと考えられていました。村民たちは、毎年定期的に常世から祖霊がやってきて、人々を祝福してくれるという信仰を持っていました。その来臨が稀(まれ)であったので「まれびと」と呼ばれるようになったとされます。

万葉集』東歌や『常陸国風土記』に、祭の夜、外部からやってくる神に扮するのは、仮面をつけた村の若者か旅人であったことが記されています。時代が進むと、「ほかいびと(乞食)」や流しの芸能者までが「まれびと」として扱われるようになり、それに対して神様並の歓待がなされたことから、遊行者の存在を可能にし、貴種流離譚(尊貴な血筋の人が漂泊の旅に出て、辛苦を乗り越え試練に打ち克つという説話類型)を生む信仰母胎となったそうです。来訪神のまれびとは神を迎える祭などの際に、立てられた柱状の物体(髯籠・山車など)の依り代に降臨するとされました。

抜粋ここまで

芸能の原点は、舞い、歌い、踊ることにより、「神霊・精霊の世界と交流する=狂う」ことです。「狂う」とは、精神が普通ではなくなることを意味します。忘我の境地に至り、非日常の世界に入るのが、本来の芸能なのだと思います。芸能の本質は、祈り感謝することにあるような気がします。トランス(恍惚)状態にはいり、人格を放棄して神霊・精霊と交われる能力者はシャーマンと呼ばれていました。現代では、祈りは祭祀に、感謝は祭礼という形式として残っています。そして、権力に抱えられた芸能は洗練されていき、権力者に抱えられることなく庶民生活に密着した土俗的芸能は根源的なスタイルを保ってきました。

観阿弥世阿弥は賤民出身であり、各地を転々としながら活動しました。風姿花伝に、「神や仏に捧げるものでありながら、大衆的な娯楽としても人々を楽しませなければならない」という苦悩が綴られています。乞食所行であり、各地をさすらう一生でした。「河原者」「河原乞食」だったのです。

その後、神とは無縁な形で、芸能を娯楽(エンターテイメント)として演じ、木戸銭といわれる入場料さえ払えば誰でも入れる芝居小屋という興行形態をとるようになっていきます。一方で、大道芸や見せ物芸などの芸能は、道端(ストリート)やお祭りなどで演じられてました。各地を転々としながら暮らす遊芸民たちは、その日暮らしの漂白民だったのです。

私の立ち位置は「庶民生活に密着した土俗的芸能」です。一応いまのところ定住生活をしていますが、流浪・漂泊・遍歴の遊芸民の気質は健在です。贔屓の方々に呼ばれて各地を転々とするのが性に合っています。舞い狂う能力は生来のものなので、死ぬまで続けることができそうです。外出自粛で、いろいろ見つめ直すことができました。今後の活動につなげていきたいと思います。