笠沙の舞瀬での舞について

南さつま市笠沙町黒瀬には、古来より親から子へ、子から孫へ、年寄りから若者へ語り継がれてきた言い伝えがあります。

天孫ニニギノミコトが海を渡って笠沙の黒瀬海岸にやって来た」というお話です。

はるかはるか遠い太古の昔、日本の国がまだ倭の国と呼ばれていた頃のお話です。

当時、倭の国には大小さまざまな国が点在し、まだ大きな国家として成り立っていなかった頃、その沢山の国の中のひとつにここ阿多の国の長屋の笠沙の御前がありました。

笠沙の御前の人々は、海に出ては貝を採り、魚を捕まえ、山では木の実や鹿、イノシシを捕まえて暮らしていました。

 笠沙の御前と呼ばれる半島の先端部にある塩浜と呼ばれる黒瀬の海岸では、人々からシオツチノオキナと呼ばれる土地の長老が毎日のように塩を作ったり、海に出て貝を採ったりしていました。

 ある日、いつものように数人のお供を従えて塩浜に行っていたオキナが、目の前に横たわるビロー島の西の方角に目をやると、そこにはとんでもないものが見えきました。

これまで、長老のオキナでさえ見たことも無い、立派な大きな船が岸に向かってやってくるではありませんか。

 船は、全部で3艘。

中でも真ん中にいる船はひときわ大きくてりっぱなものでありました。

 オキナたちは生まれて初めて見るその船にびっくりして腰を抜かすほどでした。人々は海岸に集まり、あれは一体なんだ・・・と大騒ぎになりました。

そうこうしているうちに船は段々と岸に近づいてきます。

船が岸に近づくにつれ、船の上の様子がはっきりと見えてきました。真ん中の立派な船の上には、これまで見たことのない、白い上下の服を着て、髪の毛を横に結ったりりしい高貴な方の姿がありました。

これはきっと話に聞いていた神様に違いないと恐れおののいたオキナたちは「これはとんでもないことになったぞ、手厚く迎えておもてなしをしなくては。」と一緒にいた村の若者二人にその準備を命じました。

オキナは、船が安全に岸に近づけるように塩浜の北にある平たくて大きな岩のある場所に陸から合図をしながら、船を案内いたしました。

そこは、船を着けるには平たくて大きな岩があり、水深もあり、好都合の場所なのです。

オキナたちの案内により、無事に接岸した御一行は、次ぎ次ぎに陸へ上陸してきます。

そしてオキナと兄弟の若者により案内されたご一行は、大きな岩がゴロゴロしている浜から、オキナたちが塩を作ったり、貝を獲っている塩浜の方へと移動を始めます。

その途中、ひときわ高い大きな岩があり、一行の中心的な存在のニニギと呼ばれる高貴な方は、岩の上によじ登り、自分たちが海を渡ってきた遥か洋上を見渡し、感慨にふけっておいでのようでした。

 ご一行は、この荒波の中を無事に陸にたどり着いた事をみんなでたいそう喜んでいましたが、ニニギはその近くにあった大岩に登り、何やら見たことのない舞を舞われ始めました。

どうやらこの大海を乗り越えて無事に上陸出来た事を心から喜んでいる祝いの舞のようです。

これ以降、この塩浜一帯は神渡(カミワタリ)、船が接岸した岩を打ち寄瀬(ウチヨセ)。岩の上に立って自分たちが来た洋上を眺められた岩を立瀬(タッセ)。無事に上陸できたことを祝って舞を舞われた岩を舞瀬(マイセ)と呼ぶようになりました。

……以上、イチローさんの記事より引用させていただきました。

 

今回、私が舞瀬で舞う場面は「瓊瓊杵尊が舞瀬の岩の上によじ登り、自分たちが海を渡ってきた遥か洋上を見渡し、感慨にふける場面」から「この荒波の中を無事に陸にたどり着いた事をたいそう喜んで、何やら見たことのない舞を舞う場面(欣喜雀躍の舞)」から「コノハナサクヤサクヤヒメに勾玉の首飾りをかけ、隼人の比礼(ひれ)をつけてもらい、鳥のように舞う場面」の三番となります。

1番は手踊りにて、2番は散米・鏡・剣にて、3番は比礼にて舞います。