舞踊の世界はまったく一本の扇に終始する、といっても過言ではない。武士でいえばさしずめ刀にも当たるのが日本舞踊の扇である。
その扱い方のむずかしさは別として、扇がこの世の種々様々のものを表現できる代物なのに驚いた。
一体、人がこれまで発明したもののなかで、こんなものが他にあるだろうか。考えてみると扇が日本人の生活のなかにとけ込んでいるのは舞踊の世界ばかりではない。能、落語、講談、声色、日本の芸能は達人であれば背景も道具立てもいらない。扇さえあればことたりる。扇に芸にプラスされればそれだけでどんなものでも、情景でも、気分でも表現できるのである。
舞踊の場合でも扇を手にして身がまえれば、上手は上手なり、下手は下手なり、分に相応して現実世界を消滅させ、別のある約束ごとのこの世界をそこにとって代わらせることができる。
一方、それを見る側からいうと日本固有の芸能に比較的馴染みのうすいものでも、日本人であるからには、扇によってつくり出されるそういう約束ごとの世界が自然にうけ入れられてしまうのである。
この世の森羅万象を抽象、具象をとわず表現し、また現世から別の世界に人をしらずしらず導き入れる扇とは一体何なのだろう。
引用ここまで
昔、吉野裕子先生の「扇」を読んで、そのまま扇とともに生きるようになりました。扇には、現実世界を消滅させる力があり、その力に、ずっと助けられてきた気がいたします。
笠沙で、扇の起源とされる枇榔を手に舞うことにしました。私にとっての原点に立ちかえることにことになります。