蛇はかつては大元の神であり、託宣を乞われれば、蛇巫や物に憑依してその神意を示したのである。蛇は大元の神であり、それを祀る蛇巫は祭祀の中枢にいた。しかし、時代とともに、蛇の神意は衰え、忘れられて、いつかそれは狐・犬その他の動物霊の一つとして、漫(みだ)りに人に取り憑き、悩ますものとされるようになった。つまり、古代の蛇神の中にあった「依り憑く」という働きだけが、神威喪失後も残り、その神威喪失後の憑依は「悪しきもの」以外の何ものでもなくなったわけである。
「荒神の神木の下に甕をいけて、酒をつくり、その出来具合によって年占いをする習俗がある。荒神と大元神は同神異名の神であって、穀霊である……」(石田隆義『山陰の民俗と原始信仰』)
大元神は蛇体であり、荒神もまた蛇神なのである。
荒神の神木の下に埋められる甕の主は蛇であり、酒はその神への供物だったはずである。蛇を祀った蛇巫も、祀られた蛇も姿を消して、その名残を甕と酒にとどめている。
引用ここまで
大蛇面をつけて蛇体となって舞うのは、依り憑いた蛇神とともに舞うことだと考えています。かつて大元の神であったことを、その神威を動きによって顕現していくのが、大蛇之舞人としての私のあり様だと思っています。
「そんなことに一体何の意味があるの?」
それは、舞ってみた人にしかわからないことであり、言葉では伝わらないことであり、だからこそ一生をかけてやっていきたいことでもあります。
剣も蛇の象徴です。
蛇剣之舞も舞っていこうと思います。