海神豊玉彦と阿曇磯良

■大綿津見神

 ワタツミ・ワダツミ(海神・綿津見)とは日本神話の海の神。「ワタ」は海の古語、「ツ」は「の」を表す上代語の格助詞、「ミ」は神霊の意であるので、「ワタツミ」は「海の神霊」という意味。転じて海・海原そのものを指す場合もある。

綿津見神(わたつみのかみ)、大綿津見神(おおわたつみのかみ)……『古事記

●海神豊玉彦(わたつみとよたまひこ)、少童命(わたつみのみこと)、海神(わたつみ、わたのかみ)……『日本書紀

 日本神話に最初に登場する綿津見神は、オオワタツミ(大綿津見神・大海神)。神産みの段で伊邪那岐命伊弉諾尊・いざなぎ)・伊邪那美命伊弉冉尊・いざなみ)二神の間に生まれた。伊邪那岐命、または同神と伊邪那美命の子に置かれる神で、子には宇都志日金析命穂高見命)、布留多摩命(振玉命)、豊玉毘売命、玉依毘売命の四兄妹がいる。神名から海の主宰神と考えられているが、『記紀』においては伊邪那岐命は後に生まれた三貴子の一柱須佐之男命(素戔嗚尊・すさのお)に海を治めるよう命じている。

 伊邪那岐命が黄泉から帰って禊をした時に、ソコツワタツミ底津綿津見神、底津少童命)、ナカツワタツミ中津綿津見神、中津少童命)、ウワツワタツミ上津綿津見神、表津少童命)の三神が生まれ、この三神を総称して綿津見三神と呼んでいる。この三神はオオワタツミとは別神であるとの説や、同神との説がある。この時、ソコツツノオノカミ(底筒之男神)、ナカツツノオノカミ(中筒之男神)、ウワツツノオノカミ(上筒之男神)の住吉三神住吉大神)も一緒に生まれている。

 山幸彦と海幸彦の段では、火照命又は火須勢理命(海幸彦)の釣針をなくして困っていた火遠理命(山幸彦)が、塩土老翁の助言に従って綿津見大神(豊玉彦)の元を訪れ、綿津見大神の娘である豊玉毘売と結婚している。

 

■細男

 古舞の一つ。青農、声納とも書き、「さいのお」ともいう。細男の由来については不明な点が多いが、海中をつかさどる神である磯良(いそら)の伝説と結び付いているために、多くその側面から論じられている。伝説によると、磯良は顔が醜かったので浄衣(じょうえ)の袖(そで)で顔を覆い首に鼓をかけて海中より出てきたという。『栄花物語』には「御霊会(ごりょうえ)の細男の手拭(てぬぐい)して顔隠したる」とあり、平安時代の細男は御霊会と関係があったと思われる。1136年(保延2)に始まると伝わる春日(かすが)若宮おん祭における細男は、その姿をいまによく伝えている。烏帽子(えぼし)・白浄衣・白覆面の6人が出て、2人は笛を吹き、2人は腰鼓(ようこ)を両手で打ち、他の2人は覆面の上を右袖で覆い舞い進む。白覆面と鼓は細男を特色づけているが、福岡市志賀島(しかのしま)八幡志賀海神社の磯良羯鼓(かっこ)の舞も細男であろう。また細男は人形にもみられ、福岡県築上(ちくじょう)郡吉富(よしとみ)町古表(こひょう)神社、大分県中津市伊藤田の古要(こひょう)神社には細男の傀儡(くぐつ)人形が伝承されている。細男と才(ざえ)の男(おのこ)が同一であるという説は、これを証する史料が見当たらないことから、この両者は異なるともいわれている。

日本大百科全書(ニッポニカ)[高山 茂]より

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消された大王 アントンイソラ
―安曇と阿部(阿倍)姓の王たちは日本書紀から封印されたー

1章 安曇磯良 白い覆面の神
2章 日本書紀に書かれなかった磯良の存在 各地の伝承から半生を描く
3章 各地に伝わる磯良と干珠満珠の記憶    
4章 中国正史に書かれた倭王・阿毎氏とは阿倍氏である
5章 高良玉垂宮で玉垂命(磯良)が高良の神(武内)に変わったのは白村江戦の十年後だった

歴史カフェ「アントンイソラ」の詳細です : ひもろぎ逍遥より

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阿曇磯良(あづみのいそら、安曇磯良とも書く)=志賀海大明神=阿度部磯良(あとべのいそら)

海の神。安曇氏(阿曇氏)の祖神。

春日大社に祀られる天児屋根命と同神。『八幡宮御縁起』

磯良ト申スハ筑前国鹿ノ島明神之御事也 常陸国鹿嶋大明神大和国春日大明神 是皆一躰分身 同躰異名以坐ス 安曇磯良ト申ス志賀海大明神 磯良ハ春日大社似祀奉斎 天児屋根命以同神『愚童訓』

安曇磯良は、筑前国では志賀大明神。常陸国では鹿島大明神大和国では春日大明神とも称され、 志賀島(シカノシマ)を鹿島と考える伝承がある。

天岩戸に隠れた天照大神を誘いだすために神楽に合わせて行なった滑稽な演技「せいのう」を猿楽の起源のひとつとして挙げている。『風姿花伝

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安曇磯良出現之図

安曇磯良、海流の中から亀に乗って出現したという場面。安曇磯良は、満珠・干珠の珠を使って潮の干満を操って皇后軍を助けたとされる。

竜宮・龍宮と海神と蛇

■龍宮・竜宮(りゅうぐう)

竜宮城、水晶宮、水府は、日本と中国に伝わる海神にまつわる伝説に登場する海神の宮。龍(たつ)の宮、龍(たつ)の都、海(わたつみ)の宮などとも呼ばれる。河川、湖沼が龍宮への通路となっている場合もある。

綿津見神宮(わたつみのかみのみや)

わたつみは「海の神霊」の意味。海宮、海神宮、海童宮とも書かれ「わたつみのみや」とも称される。海神が住む宮殿の名称。

■『続仙伝』

竜王が住む水中にある宮殿として龍宮が登場。唐の時代の名医・孫思邈(そんしばく)は蛇を助けて龍宮に行き、龍王から30種類の製薬の方法を教わったという説話がにある。

■八岐大蛇(ヤマタノオロチ

原初出雲の古層の龍蛇神(りゅうだしん)。海神(わたつみ)説がある。

安倍晴明物語~安倍の童子小虵をたすけ并竜宮に行て秘符を得たる事

 安倍の童子住吉大社に詣でた際、子供たちが集まって小さなへび(虵)を捕まえて殺そうとしているのに出会う。童子はへびを不憫に思い、これを買い取り、「人の多いところへ出るな」と諭し、草むらに放してやった。童子が安倍野へ帰ろうとすると、突然美しい女性が現れ、自分は竜宮の乙姫であり、先ほど殺されそうになったところを助けてもらった恩返しに竜宮へ招待すると言う。童子はこの誘いを受けた。
 わずか1町(約1km)ほど歩くと大門に到着し、そこを入ると宮殿楼閣がそびえ立ち、庭には金銀の砂が敷かれ、垣には玳瑁(たいまい)が飾ってある。さらに奥へ進むと宮殿楼閣の四方に、それぞれ四季(春・夏・秋・冬)の景色が広がっている。宮殿楼閣は七宝で装飾され、荘厳で美しいことこの上ない。乙姫に誘われ、豪華な内装をしつらえた宮殿に上がると、高貴な装いの男女が待っていた。この貴人たちは童子を招き寄せ、「我が娘の命を助けてくれた御恩に報じます」と言うやいなや、美しい女性が2、30人、手に仙郷の珍味を捧げもってこれを並べ、宴席が設けられた。宴が終わると、竜王は金の箱を取り出し、「これは竜王の秘符である。天地日月人間世界のすべての事がわかるようになる。名を揚げ、人々を助けよ」と告げて童子に渡した。さらに七宝の箱から一青丸を取り出し、童子の目と耳に入れた。
 乙姫に伴われ童子が竜宮を辞去すると、1町も行かないうちに安倍野に出た。家に帰りついて、人の顔かたちを見ると、その人の過去・未来が心に浮かんでくる。さらに鳥や獣の鳴き声を聞くと、その意味が手に取るようにわかる。最初は訝しんだが、その原因が竜宮の薬にあることに思い当たった。

竜王信仰(「平凡社 世界大百科事典 鈴木 健之」より)

 竜王は古代中国における想像上の霊獣である竜の人格化した神。仏教の八大竜王の信仰とも習合している。海、河、湖に住み,天の至高神〈玉皇大帝〉の配下で雨と水をつかさどる。河竜王は河水の調節をし、海竜王津波や潮を起こすともいわれ、漁村では海上の守護神ともされた。かつてはいたるところに竜王廟があり、または関帝廟、土地廟に合祀され、古来農村では雨乞いの対象であった。

 一般に雨乞いは村共同で竜王に祈願し、竜王の木や泥の像か位牌をかついで練り歩き、竜が住むとされる河辺、池、井泉に詣でた。地方によっては、像を烈日にさらす、棒で打つ、石を投げつけるなど竜王を虐待したり、池を汚濁させたり、近村から像を盗んできたり、感謝の奉納芝居を打つなどさまざまな儀礼習俗が行われた。

 説話に見える竜王はたいてい魚、貝、亀、蛙など〈水族〉を従えて竜宮に住み、宝物を所蔵し、娘〈竜女〉や太子がいる。竜王の子を放生(ほうじよう)して果報を得る話や竜宮女房型の話にもよく登場する。

■日本の龍王信仰(「平凡社 世界大百科事典 中尾 尭」より)

 日本では古く《日本書紀》に,〈豊玉姫まさに産せんとするに,化して竜となる〉とある。竜宮がはるかな海中にあるとされるように竜は基本的に水神としての性格を帯び,女神としての柔和さと,天にかけ登る荒々しさを兼ね備えた動物神である。しばしば蛇神と混交され,竜王あるいは竜神と呼ばれて庶民信仰や説話のなかに大きな位置を占めている。日本では水神として竜神がまつられ,雨乞いのときには竜神池の水を汲んで祈禱する例は多い。

■日本の海神(「平凡社 世界大百科事典 北見 俊夫」より)

 一般には水神の表徴である蛇信仰が中国の竜信仰と結びついた竜神の同意語として、竜宮・竜王などと呼ぶ場合が多い。海神を祭る神社の主要なものとして、宗像(むなかた)大社、住吉神社、大山祇(おおやまづみ)神社、金毘羅社などが全国的に勧請流布している。海神祭は神霊を奉安した御輿を海中渡御(とぎよ)するものをはじめ、御旅所神幸や競漕するものなどが見られる。沖縄本島北部の村々では、海神を迎える海神(うんじやみ)祭が盛んで、海神と山神との交遊する日の祭りという。付随して爬竜(ハーリー)と呼ぶ舟漕ぎ競争が催される。ハーリーは中国から伝来したといわれ,長崎のペーロンも同系統のものと思われる。海民の海上での禁忌は厳しく、沖言葉という忌詞(いみことば)がある。なかでも蛇、猿という言葉を忌むのが特徴で、蛇は海神の表象だからであろう。

■「中国福建沿岸の諸廟と海神 林国平」

 福建の原初の海神信仰を閩越族にさかのぼって「海神は蛇トーテムであった可能性が極めて高い」とした。これは済州島の蛇信仰にも通じるものとみられる。済州島のチルソン(七星)という神は星ではなく、海の彼方から漂着した八匹の蛇で、これが富をもたらし定着して祖先としてまつられる。また兎山堂の神も朝鮮半島全羅道からきた蛇神でやはり一族、あるいは村の祖先神の扱いをうけている。そのほか蛇を崇拝する民俗はいくつもみられ、それらが血縁の祖先崇拝とはまったく別の祖先観に由来することはよく知られている。

風水龍王と大蛇・豊玉姫(高良玉垂宮伝承)

高良玉垂宮神秘書 訳文』より

■天神七代

 天照大神その素戔嗚尊へを持て余して天の岩戸に籠った。日の神が籠ったので日本は暗闇となった。その時五人の神楽 八人の女性 笛を吹き鼓を打ち拍子を揃えて神楽をはじめた。面白いかと思い扉を少し開いた。人影が見えたのでひたちの国の戸隠明神が扉を開いた。その時より「おもしろい」とは「面白い」と書くようになった。

 天岩戸の後(中略)樋の川の奥へ入った。その川の川上より箸一対流れてきた、人が在ると思い、川伝いに入ると。片原に在家が見えてきた。立ち寄って見てみると、夫婦と姫一人が見えた。泣き悲しんでいるので。スサノヲ尊は尋ねてみた。「何事か?」答えは。「この浦は三年に一度、この川に「いけにえ」があり。今年はわが姫に当たりました、男の肌に触れない女を「いけにえ」に供えなければなりません。」という。スサノヲ尊は訳を聞いて。「ここに至って、そういうことであるならば、悪龍を退治すべし。」と言った、翁は答えた。「お願いします。」と喜んだ、翁夫婦の名を足名椎(あしなつち) 手名椎という。姫の名を稲田姫云った。スサノヲ尊その意を得て、まず、「ヤハシリ酒」という毒酒を作って、舟一艘に積み、上の社に段を構え、姫の形に人形を作り置いた。

 風水龍王、人形の形が酒に映って、酒の下に人があると思い、毒酒を飲み干す。もとより、かくのごとくせんがための企みであれば、川岸に酔い臥した。スサノヲ尊、これをご見てトツカの剣を抜き、散々に切り。八の尾をことごとく切った。その中の一つに切れない尾があり、見ると氷のごとくになる剣あり。取りてみると、後の天照大神の三種のうちの宝剣である。この剣は近江国伊吹山で失った。(中略)

 スサノヲ尊、宝剣をもって、もとの斎所にもどられ、神たち集まり、この宝剣を天照大神に贈呈され、たいそう喜ばれた。その時、スサノヲ尊と天照大神仲直りした。
(中略)
 この宝剣は風水龍王の八つの尾の中の尾にあり。剣のあるところから煙立ちて叢雲のごとくに在るにより、叢雲の剣と名付けられた。

 その後、草木に火をつけ国土を焼かんせしを伝え聞き、この剣をもって草をなぎ払いたまう。この時より草薙の剣と申すなり。

■地神五代

ある時、彦火々出見尊が弟彦ソソリノ尊に釣針を借りて、兄の彦火々海原に出て、釣り針を海に入れた。アカメクチがこの釣針を食切る。御弟彦ソソリノ尊の持ち伝えの釣針なので、兄の彦火々出見尊、呆然と呆れていると塩土の翁と云うものが現れた。「吾皇子にて御身の御徳を忘れず。今現れ来たりなり。」その御礼をするため、ナメシカゴ(目無籠)と云うものに、彦火々出見尊を連れ奉り海中に招き入れると、ほどなく竜宮界に着きました。

 これまでの事を次第に竜王に申せば、「この世界に三年逗留すれば、その間に願いをかなえる。」申せば、彦火々出見尊「そのとおりにいたします。」と答えた。竜王「諸々の魚寄せ集めよ」とアカメクチに伝えれば、しきりに寄せ集められ、諸々やってきたアカメクチのその中に、頬腫れて異なる口を開けてみれば、釣針見つかり、その釣針を密かに取り、竜宮へ納めた。竜宮の娘と彦火々出見尊へ渡し。その釣針を取り出し、彦火々出見尊へ渡すと。その釣針を受け取り、夫婦共に竜宮を出で、海上にほどなく上陸し、彼釣針を御弟彦ソソリノ尊へ返した。竜王の娘と彦火々出見尊は夫婦となり、やがて豊玉姫は妊婦となり臨月となった。産所を造ってほしいといわれ、鵜羽をもって葺いた。葺き合せている最中に出産給し。これにより、この御子の御名を彦波瀲武鵜草葺不合尊と呼んだ。豊玉姫とお避けるうちは百日をまんしてよりご覧あれ、とお避けれともまじか子九十九日にあたるとき、彦火々尊、ものの隙間よりご覧するに、豊玉姫は大蛇となって、七又の角の上に その御子を置き、したをもって子降っていたのを彦火々出見尊が覗きみたことにより豊玉姫は御子を捨て海中に帰っていった。嘆き悲しむ彦火々出見尊のところに豊玉姫の妹 玉依姫が竜宮よりあらわれ御子を養育した、御子を玉依姫と甥の彦波瀲武鵜草葺不合尊はやがて夫婦になった。

 彦波瀲武鵜草葺不合尊は住吉大明神のことである。その御子住吉五神といは二人は女子 三人は男子 二人の女子の名前は表津少童命 中津少童命といった。男子の名は長男大祝先祖の名は表筒男 次男神天皇の名は中筒男 三男高良大菩薩の名は底筒男と言った。

 異国征伐の時、干珠 満珠で国土を治め、又皇宮で勾玉を持たせていただいた間 御鳥居玉垂宮とありました。大祝鳥居には大明神正一位といいました。大祝家は今までに比類なき家である。高良大井御記文にも五姓を定めること神部物部を比せんが為なり天代七代 地神五代より大祝家の系図は定まっていました。

※引用ここまで

海幸彦は「阿多隼人の祖」「隼人等が始祖」

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今こそ、隼人。

『隼人族の抵抗と服従』より引用いたします。

【ハヤトの語源】(2P)

猛禽類(もうきんるい)の隼(はやぶさ)のイメージから出たという説。

②性格による説(本居宣長古事記伝』)

 隼人は絶(すぐ)れて敏捷(はや)く猛勇(たけ)るが故に此ノ名あるなり

 『和名抄』に隼人司=波夜比止乃豆加佐とあり隼人は「ハヤヒト」と訓(よ)むべきだと宣長はする。

 早人(はやひと)の名に負う夜いちじろく……『万葉集

③地名「波邪(はや)」より起こるとする説

 「邪古(やく)・波邪(はや)・多尼(たね)ノ三小国有り」『新唐書倭国伝』

④ハヤテ(疾風)の意

⑤囃人(はやしひと)の説

 隼人の風俗歌舞「隼人舞」。隼人における「囃(はや)し」人から名付けられた。

■海幸彦山幸彦神話の背景(3P)

兄の海幸彦が「隼人族の祖先」と書かれている。

生ます時に方りて、其の殿に火を着けて産みましき。故其の火盛りに、燃ゆる時に産まれませる子 名は火照命 此は隼人阿多君の祖 『古事記

今より以往吾が子孫の八十連属 互にまさに汝の俳人たらん。「一に云く狗人」(中略)是に兄 弟の神徳いますと知りて、遂に以て其の弟に伏事ふ。是を以て火酢芹命(ほのすそりのみこと)の苗裔、諸の隼人等、今に至るまで天皇の宮の傍を離れず吠狗に代りて奉事るい者なり。 『日本書紀

 

『曾の隼人 霧島郷土史研究会』より引用いたします

■隼人の実像(42P)

 ハヤト(隼人)という言葉:ハヤトの名義については諸説あり、未だ定説といわれるものはない。しかし主なものをとりあげると次のような説がある。

 まず本居宣長は、『古事記伝』の中で「隼人は波夜毘登(ハヤヒト)と訓(よむ)べし、(中略)隼人(はやびと)と云者は、今の大隅薩摩二国の人にて、其国人は、絶(スグ)れて敏捷く(スバヤク)猛勇(タケ)きが故に、此名あるなり、(下略)」と述べている。

 またハヤトという言葉は、記紀の冒頭の神話、いわゆる海幸・山幸の物語に出てくる。この神話はハヤトが大和王権に服属したとする内容から、七世紀後期以降に定着したものであろう。

 一方この説に対し、近年異説も出ている。ハヤは、マリアナ語で「南」をさすので、ハヤヒトのハヤはこれに由来するという説がある。

 またハヤシビトから来たという説もある。「囃し人」の意であり、ハヤトの歌舞の囃しと関連づけるものである。

 「ハヤブサ」という鳥が、他の鳥を捕らえるその早さから、「ハヤト」という名前の由来を推測する学者もいる。

 ハヤトは、ハヤヒトともよばれ、『日本書紀』神代下に火酢芹命(ホスセリノミコト)海幸が弟の山幸に敗れて服罪した際に、「自ら狗人と称した」とあり、火酢芹命がハヤトの祖とされている。


■なぜ「蝦夷」「隼人」と名付けたのか(58P)

 古代中国において、自民族を最高の民族として国の内外に示すことは、漢民族の繁栄はもちろんのこと、天子を頂点とする中央集権政治のためには欠くことができないことだった。無条件で隷属する国や民族が多いほど、その中心はより強力な権力者として輝いていた。

 蝦夷は『えびす』の意味を持ち、都から遠く離れた未開の地の人を指す蔑称である。また隼人というのは、『隼の人』と書くことから誤解されやすいが、古代中国では鳥の中で最も強靭で荒々しく、狡賢(ずるがしこ)い鳥として蔑まれていた。明治維新後は『薩摩隼人』としてもてはやされるようになったが、本来の意味を失ったものである。

■日向神話はなぜ書かれたか?

 隼人の祖先である兄の海幸彦は天皇家の祖先となる山幸彦に服属し、俳優(わざおぎ)として、あるいは狗吠(くはい)して天皇を災いから守る者として仕える。そして海幸彦はいまも、山幸彦を祀る鹿児島神宮の二の鳥居の入り口で、門守神(大隅命)として、山幸彦と鹿児島神宮を守り続けているのである。

 記紀において海幸彦は「阿多隼人の祖」または「隼人等が始祖」とされている。

 

※引用ここまで

 

満珠・干珠は潮の干満を支配する珠にして、龍宮城の宝物と伝ふる所なり。

【潮満瓊・潮満珠

潮を満ちさせる呪力があるという玉。満珠(まんじゅ)。しおみつに。しおみつたま。

【潮涸瓊・潮干珠】

潮をひかせる効力をもつ玉。干珠(かんじゅ)。しおひるに。しおふるたま。

古事記(712)上 「塩盈珠(しほみつたま)を出して溺らし、若し其れ愁ひ請(まを)さば、塩乾珠(しほふるたま)を出して活(い)かし」

日本書紀「海神乃ち彦火々出見尊を延きて、従容語して曰く、天孫若し郷に還らんと欲せば、吾れまさに送り奉るべし、便ち得る所の鉤を授る、因りて誨へまつりて曰く、此の鉤を以て汝の兄に与へたまふ時に、則ち陰に此の鉤を呼びて、貧鉤と曰ひて然して後に与へたまへ、復た潮満瓊及潮涸瓊を授りて誨へまつりて曰く、潮満瓊をつけば則ち潮忽ち満たん、此を以て汝の兄を没溺らせ、若し兄悔いて祈まば、還つて潮涸瓊を漬けば、則ち潮自ら涸む、此を以て救ひたまへ、かくなやまし給はゞ則ち汝の兄自ら伏ひなん。」  

 

 山の猟が得意な山幸彦(弟)と、海の漁が得意な海幸彦(兄)。兄弟はある日猟具を交換し、山幸彦は魚釣りに出掛けましたが、兄に借りた釣針を失くしてしまいます。困り果てていたところ、塩椎神(しおつちのかみ)に教えられ、小舟に乗り「綿津見神宮(わたつみのかみのみや)」(又は綿津見の宮、海神の宮殿の意味)に赴きます。

 海神(大綿津見神)に歓迎され、娘・豊玉姫(豊玉毘売命・とよたまひめ)と結ばれ、綿津見神宮で楽しく暮らすうち既に3年もの月日が経っていました。山幸彦は地上へ帰らねばならず、豊玉姫に失くした釣針と、霊力のある玉「潮盈珠(しおみつたま)」と「潮乾珠(しおふるたま)」を貰い、その玉を使って海幸彦をこらしめ、忠誠を誓わせました。この海幸彦は交易していた隼人族の祖と考えられています。

海神「兄が攻めて来たら鹽盈珠で溺れさせ、苦しんで許しを請うてきたら鹽乾珠で命を助けなさい」
 火照命が荒々しい心を起こして攻めてきました。すると火遠理命は塩盈珠を出して溺れさせ、火照命が苦しんで許うと、塩乾珠を出して救いました。これを繰り返して悩み苦しませると火照命は頭を下げて、火遠理命を昼夜お守りすると誓いました。

 

 草部吉見には、日子八井命が「火の玉(乾珠)と水の玉(満珠)」という両玉(珠)をもって来た」という伝承があります。水の玉には雨を降らせる力が、火の玉には日照りをもたらす力があったとされ、命はこの両玉により自在に天気を操り、阿蘇の地に農業を広めたそうです。

 

 満珠・干珠は潮の干満を支配する珠にして、龍宮城の宝物と伝ふる所なり。伝へて曰く、神功皇后三韓征伐の時、諸神を鹿島に集めて評定す、その時磯良というもの獨り到らず因って神楽を奏せるに、磯良始めて到る、曰く「予九海に入りて年久しく魚類と雑居して風貌甚だ陋、故に到らざりしも、今神楽の音に導かれて来るのみ」と、是に因って満珠干珠を磯良に求む、磯良即ち龍宮に入り之を求めて来りて献ず。皇后黄石公の兵書と共に之を身に体して三韓に渡る、三韓の兵海上に防ぐを見るや、干珠を投じて干潟とし、その兵の船を下るや、満珠を投じて満潮とし、遂に敵兵を溺死せしめたりという。凱旋の後この二珠を紀州日前の宮に納む。

 

 蒲池媛(かまちひめ)は、神功皇后三韓征伐に従い、満珠干珠の両玉で潮の満ち引きを操り、皇后軍を勝利に導いたとされます。蒲池媛は海人の血をひきます。満珠は宇土郡浦神社に、干珠は草部吉見神社に祀られたとされます。阿蘇家伝書には満珠・干珠は阿蘇山玉嶽に納めるとされます。

草部吉見大明神国龍命

 そもそも、草部吉見大明神国龍命と申し奉るは、天神七代野後地神五代の終、葺不合尊御子神天皇御時時中秋、宮居の池より出で給うなり。

 尊いわく。吾此の池に住む事久し。いま、神武天皇の産まれ給うを見て出でたりと宣ゆえ、吉見神と申し奉る。その元は、龍体にておわし、天神七代の終、伊奘諾・伊弉冊尊此の国に産まれ給う終よりおはす大神なり。いま人体と出で現れ給うて、其?りゆえに国龍命と申し奉る。

 人寿三百六十歳、考安帝御宇秋崩じ給うなり。御墓は爰を宮原と名付け、此の所にいますなり。然るに直ちに池の上の山より地を引きくだし、宮居建て給ゆえ、ここを地引原と申すなり。この池より南に当り?の原隅一つの池有り。菅の池と申す。女龍住み給うなり。のち、草姫と申し奉る是なり。芳池より是に通ひ給うゆえに、?通原とも迎原とも申すなり。

 然るに阿蘇国一片?草有しゆえに、草部とも申すなり。尊現れ給う時、宮居より?西に当り、一つの真萱の池あり、此の前に住み給う神、面、牛のごときゆえに牛神と申したてまつる。

 尊の現れ給う時、出でて応待ありし神なり。その時、尊に先づ粟を備え給うゆえに、牛頭に粟を備えこれを祭る。

 その時、牛に乗り、五穀の種を持ち来たり、蒔きて耕作したまうえに、これを作る神祭り奉るなり。

 しかるに、吉見明神、一の姫を産み給う。阿蘇都媛と申し奉る。すなわち、のち阿蘇都彦の御后にておわす。その後、一人の男子を産み給う。草三郎と申し奉る。新彦命の御事なり。鶴原に天女三人下り給い、内一人を娶り二子を産み給う。一人は新比咩、一人は若彦なり。若彦は草部経蔵の御事吉松姫を娶り二子を産み給う。一人は真多経末、一人は布夜経次。

※草部吉見大明神国龍神由来より

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吉ノ池(八功徳水)

 草部吉見大明神は別名、国龍命(国龍大明神)。イザナギイザナミよりずっと昔から龍体として吉ノ池に棲んでいました。神武天皇の御誕生を「吉」と「見」、人体となって草部の地に顕現したとされます。

 日下部(くさかべ)氏は吾田の隼人の後裔という説があります。日本書紀に、神功皇后三韓征伐に向かう際、豊浦津で如意宝珠を海中から得たとあります。阿蘇神話によると、神功皇后に側役として付き従った蒲池媛が持っていた満珠・干珠を投げて、潮を満ち引きさせ、新羅の軍に戦わずして上陸できたとされます。満珠は蒲池媛を祀った宇土半島郡浦神社に、干珠は阿蘇南郷の草部吉見神社にあったとされています。

 草部吉見神社由来書によると、現在の草部吉見神社社殿が建っている辺りは、昔、大蛇のすんでいた池で、それを国龍神が満干の両珠でもって退治し、池を干したと伝わっています。