草部吉見大明神国龍命

 そもそも、草部吉見大明神国龍命と申し奉るは、天神七代野後地神五代の終、葺不合尊御子神天皇御時時中秋、宮居の池より出で給うなり。

 尊いわく。吾此の池に住む事久し。いま、神武天皇の産まれ給うを見て出でたりと宣ゆえ、吉見神と申し奉る。その元は、龍体にておわし、天神七代の終、伊奘諾・伊弉冊尊此の国に産まれ給う終よりおはす大神なり。いま人体と出で現れ給うて、其?りゆえに国龍命と申し奉る。

 人寿三百六十歳、考安帝御宇秋崩じ給うなり。御墓は爰を宮原と名付け、此の所にいますなり。然るに直ちに池の上の山より地を引きくだし、宮居建て給ゆえ、ここを地引原と申すなり。この池より南に当り?の原隅一つの池有り。菅の池と申す。女龍住み給うなり。のち、草姫と申し奉る是なり。芳池より是に通ひ給うゆえに、?通原とも迎原とも申すなり。

 然るに阿蘇国一片?草有しゆえに、草部とも申すなり。尊現れ給う時、宮居より?西に当り、一つの真萱の池あり、此の前に住み給う神、面、牛のごときゆえに牛神と申したてまつる。

 尊の現れ給う時、出でて応待ありし神なり。その時、尊に先づ粟を備え給うゆえに、牛頭に粟を備えこれを祭る。

 その時、牛に乗り、五穀の種を持ち来たり、蒔きて耕作したまうえに、これを作る神祭り奉るなり。

 しかるに、吉見明神、一の姫を産み給う。阿蘇都媛と申し奉る。すなわち、のち阿蘇都彦の御后にておわす。その後、一人の男子を産み給う。草三郎と申し奉る。新彦命の御事なり。鶴原に天女三人下り給い、内一人を娶り二子を産み給う。一人は新比咩、一人は若彦なり。若彦は草部経蔵の御事吉松姫を娶り二子を産み給う。一人は真多経末、一人は布夜経次。

※草部吉見大明神国龍神由来より

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吉ノ池(八功徳水)

 草部吉見大明神は別名、国龍命(国龍大明神)。イザナギイザナミよりずっと昔から龍体として吉ノ池に棲んでいました。神武天皇の御誕生を「吉」と「見」、人体となって草部の地に顕現したとされます。

 日下部(くさかべ)氏は吾田の隼人の後裔という説があります。日本書紀に、神功皇后三韓征伐に向かう際、豊浦津で如意宝珠を海中から得たとあります。阿蘇神話によると、神功皇后に側役として付き従った蒲池媛が持っていた満珠・干珠を投げて、潮を満ち引きさせ、新羅の軍に戦わずして上陸できたとされます。満珠は蒲池媛を祀った宇土半島郡浦神社に、干珠は阿蘇南郷の草部吉見神社にあったとされています。

 草部吉見神社由来書によると、現在の草部吉見神社社殿が建っている辺りは、昔、大蛇のすんでいた池で、それを国龍神が満干の両珠でもって退治し、池を干したと伝わっています。

片脚の母趾球(足の親ゆびの付け根)か踵(かかと)を支点にして全身を旋回させる。

 舞の旋回法にはさまざまなやり方があります。私は、片脚の母趾球(足の親ゆびの付け根)か踵(かかと)を支点にして全身を旋回させております。左右への切り返し動作が多いので、膝を曲げた状態でハムストリングス(もも裏の筋肉)を使うことで効率的な方向転換が可能になります。足幅が広くなっても、この旋回方法であれば無理なく回復することができます。支脚の上に脊柱の軸があるため、遊脚を自在に動かすことができ、素早くうごくことができます。大蛇の運足は、180°旋回をつなげていくものですが、膝を直角に曲げたまま下腿の回旋力を使って旋回するために袴やスカートで足を隠すと、どうやって移動しているのかわからないと思います。

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旋回

 両足を支点とする旋回方法では、両足の間で脊柱が軸となります。安定性が高くなる代わりに、動きは遅くなります。飛行機で例えると、片脚旋回は戦闘機、両脚旋回は旅客機(ジャンボジェット機)のイメージになるかと思います。旋回するというよりは、「歩きまわる」というような感じとなります。

 旋回時に、完全に一本足になることは避けております。視覚に頼りすぎず、足底感覚を使いたいからです。大地とつながって動きますので、むやみにやたらに飛び跳ねることはありません。なめらかに地を這うように見えるはずです。脊柱の側屈と骨盤の片側挙上を組み合わせることで、独特の蛇行運動をなります。

四股を踏むような所作で十五夜踊りを踊る(鹿児島)

十五夜行事の基本構造より

十五夜の大綱を、とぐろ状に巻いたり、蛇とみなしている事例が各地にある。また「竜神」という言葉もあるが、下野敏見氏は、竜神の概念は相当発展した文化レベルに位置するもので、農漁民の間では蛇とか大蛇と理解していたと述べ、十五夜綱に関する蛇性のものを「竜蛇」と表現している〔下野1989a、169―170〕。

下野敏見氏は泊十五夜のオドリクヤシ(踊り壊し)を次のように解き、十五夜行事が死と再生のモチーフにちなむ健康祈願・豊作祈願の行事であると述べている〔下野2005a、271〕。

十五夜の綱は蛇の象徴であり、オドリクヤシはオドリの輪や列を蛇と見ての“断ち切り”である。欠けてもまた満つる月や脱皮しても再生する蛇は、永遠不死の存在であり、こうして人々は仲秋の名月に健康祈願を祈るのである。それに月の夜は露が降り、蛇は水の主でもあって、月と蛇を祈ることは雨乞いに通ずるもので、豊作祈願の趣旨もある。」
※引用ココマデ

 

九州中南部の宮崎、熊本、鹿児島から南島にかけて、旧暦8月15日に綱引を行う。もともと綱引きは日本、朝鮮、東南アジアの地域に多く見られ、主に稲作の吉凶を占う行事であるとされてきた。また旧暦五月に竜神を迎え水神祭をし、旧暦八月に竜神を送って十五夜綱引をするのが古い竜神の祭り方であり十五夜綱引の始まりではあるまいか 山からしかし著者は十五夜綱引とそれに関する民俗を選び、古形を探り、研究をすすめていくうちに全く違った結論を得るに至った。竜神送りである。今も満月の夜に月に祈りをささげ、綱を引き、相撲に興じる人々に日本の文化と精神の神髄を見る。
※ 十五夜綱引の研究 小野重朗著より

 

 

 綱引きののち、藁(わら)でつくった「蓑笠(みのがさ)」をまとった子供たちが四股を踏むような所作で十五夜踊りを踊ります。知覧町では、十五夜綱引を終えた後に、男の子供組の者がソラヨイをします。永里の中福良では、網作りのときに用意したワラのミノ、ハカマという肩蓑、腰葉風のもの、同じくワラのヨイヨイ笠という長円錐形の帽子などを裸の上に着けて列を作って土俵に上がります。土俵の中央には大きな傘状のヤマがあり、子供頭がその中に入って指揮します。子供たちは輪を作り「サア、ヨイヤンソーシツ、ソラヨイ、ソラヨイ、ヨイ、ヨイ」と歌いながら、相撲の四股を踏むのに似た単純な動作で踊ります。踊りを何種類か踊って退場したのち、扮装を脱いで、十五夜相撲が行われます。 

 

十五夜の綱は龍蛇(水神)をイメージしており、脱皮して力を再生する海の精霊の力にあやかって健康を祈願し、集落を清めるとされます。月は満ち欠けをする再生のシンボル、蛇もまた脱皮を繰り返して生きる再生のシンボルだと考えられています。

 綱引きをせずに、子供たちが綱をかついで村の周囲を歩き、穢れを綱にたくして村を清めたあと、綱を海や川に流すところもあります。盆綱(ぼんづな)では、子供たちが新盆の家などを龍蛇にかたどった綱をかついでまわり、綱には精霊が乗ってやって来るとされています。龍蛇が異界から来訪し、村を祝福し清めたあと再び異界へ戻っていくという形をとるところもあります。綱を担いでまわる形態は、綱を引き合う形態より古いと考えられます。綱担きと綱引きずりだけで綱の引き合いはしないところも多くあります。鹿児島湾には、十五夜綱が水神の竜であるという伝承があり、十五夜には水神の龍が集落をまわって秋の豊作を祝福して、水界の海や川に帰っていくものと考えられています。

 また、鹿児島には、月読尊は桜島で出生したという口碑があるそうです。

 人の力士同士の最古の戦いは、野見宿禰當麻蹶速当麻蹴速)の「捔力(すまいとらしむ・スマヰ)」とされています。

「朕聞 當麻蹶速者天下之力士也」

「各擧足相蹶則蹶折當麻蹶速之脇骨亦蹈折其腰而殺之」

 蹴り技の応酬により、宿禰が蹴速の脇骨を蹴り折り、倒れた蹴速にさらに踏み付けで加撃して腰骨を踏み折り、絶命させたとされます。

日本書紀 垂仁天皇7年(紀元前23年)7月7日 (旧暦)

今年の年末、鹿児島にて、四股を踏むような所作=醜(しこ)足で舞うことになりそうです。「月(太陰)」を象徴する龍蛇の舞を奉納したいと考えております。

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吉福社中 吉原狐舞稽古

yoshiwara-kitsune.jimdofree.com

 

日本の古き良き仮面劇である神楽の魅力を今に伝え、わかりやすく面白い芸能としての革新を目指す神楽団「吉福社中」の百合之介@吉福社中(狐太夫)さまの指導の元、安部塾東京IBUKIにて稽古をつけていただきました。

参加されたみなさまが、「楽しい♡」と口にされてありました。今後も定期的に稽古会を開催したいと思います。

自分のまわりに境界線を引く~歩行で結界を張る~足踏み・引きずり

古代舞の足さばきには、歩行呪術がとりいれられております。一定の方則に従って足を踏み歩行する=足さばきをする作法には、呪術的な効果があると考えられていたそうです。

・四股(醜足)

・田楽

・神楽

・申楽(猿楽)

念仏踊り

・六方

そして、反閇と禹王の歩行法。

古代においては、邪霊悪鬼を鎮め祓い浄める歩行法・足踏みがおこなわれていました。邪気を踏み破り鎮め、そこから吉祥を呼びこもうとしたようです。歩行によって結界を張っていたと考えられています。

原初的歩行呪術である激しく足を踏み鳴らす「だだ=達陀」は、現代のダンスでもよく見られる、擬音であらわすと「ダダ、ダダダン」とかが使われる系統のステップにつながっているように思います。

足を引きずる作法は、子供が地面に足で線を引いて、「こっちは僕の陣地」とかやる感覚に近いと思います。舞踊の「おひきずり=裾引き着物」の足さばきも、元は何らかの呪術だったのではないかと思います。

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おひきずり

すり足は、大地の霊に尊祟の念をあらわす行為が源流との説もあるようです。

林達夫さまの「楽器が自らの音の調べとリズムを主張するとき、人の身体、人の身振りや身のこなし方にも干渉し、注文をつける。わが国の芸能においては、スリ足で舞い舞いして、なかなか大地からはね跳ぼうとしないのは、楽器の発達が縄文以来、控えめに終始してきたことに遠い由来があるのかもしれない」という説も興味深いです。

古式の舞は、腰低く重心を落とし重々しく舞われます。股を割り腰をいれる「地霊を鎮める所作」が見られます。「二畳で舞え」と言われる「足の裏を見せないすり足」が特徴です。腰から両足の足裏まで地に密着した重心の低さが鎮めにつながるように感じます。

力士が地から天にせりあがり、力強く四股を踏み、「地の負(陰)」を鎮め、「天の勝(陽)」を祈りあげる呪術的作法も、現代に残っております。

金屋子神は八幡神?

玉鋼の杜 金屋子縁起と炎の伝説  36P~

石塚尊俊氏は、金屋子神の縁起書や、口伝から、金屋子神八幡神であろうかと説いておられる。火は日と音の一致が示しているように、火の神は元来日の神である。金屋子神は通常女神であったとされているが、だが、それはこれを祀る者が女であったからで、もとは若々しい男神であった。それは火の神であって、時には雷の形をもって降臨せられた。旱天雨を乞うとき、雨とともに天降りましたというのは、もともとこの神が日の神であり、雷の形をもって降臨せられる神だったからにほかなるまい。それは時には火雷神の丹塗の矢のごとく、矢の形をもって現じたまうこともあったろう。だから神主安部も弓矢をもって迎えた。突如として狩の記事を出しているのは、もともと狩具が弓矢であり、弓矢は本来火の神をまつる祭具にほかならない。

八幡信仰は、「玉依姫考」に説かれているように、母子信仰に始まっている。即ち、八幡三所の一所たる比咩神とは多くの場合玉依姫で、「依」は「魂の依りつく意」で、八幡神は、そうした、大神に仕える巫人と御子神との母子三柱の神を中心とした信仰から始まったと説き、その証左として、大隅八幡宮の縁起を揚げておられる。これと変わらぬ母子信仰本来の形に近い話を、赤来町の旧県者「出雲赤穴八幡宮」において発見したとして、柳田先生の説かれる八幡神話より古形のものがあった。又、この八幡宮が鎮座する場所の小字が「金屋」となっている。金屋とは、いうまでもなく、金屋子信仰の伝承者・炭焼小五郎の撒布者であった。

八幡神が本来鍛冶神であることは、「炭焼小五郎」に書かれて以来、今日通説になっている。ここに金屋子の降臨譚を持ち出してくるとき、それがやはり母子信仰のひとつの流れであり、金屋子信仰そのものが、本来やはり八幡信仰と同系であったことが推察される。八幡信仰を運んだものが金屋であり、しかしてこの神の名が金屋子神であることを考えるとき、当然に因縁の浅からぬものを感じざるを得ぬのである。のみならず、降臨譚には神を運んだものが白鷺だったと伝えている。白鷺とは八幡の遺し女であり、かつ、朝日長者の福神でもあった。

八幡信仰は、宇佐に始まって後全土に拡まり、それと同時に性格が全く一変した。しかるに金屋子神は、今日、中国山地を頂点として余影は、奥州・関東にも及び、今日地方における鍛冶神としては最も広い領域を占めている。なぜ宇佐に残らずに、もっぱら中国山地で発達するに至ったか、その答は単純である。つまりこの地のもつ自然がそれを支えたのである。ここには良質ともに豊富な砂鉄があり、それによるいわゆる鑪吹の技術が古来最も盛んであったからにほかならない。いい換えれば、その信仰の基盤とも称すべき条件が、ここではもっとも安定していたということが、ついにこの地をして鍛冶神信仰の中心地たらしめ、また、比田の杜をして諸国同名神社の総本祠たらしめた根本的な理由であった。のみならず、この地は都に遠く、八幡神が国家第二の宗廟として朝野の尊信を受けられたごとき、中央からの影響を蒙ることが少なかったということも、これをして比較的純粋なまま火の神の伝統を継がしめた所以ではなかったか、と述べておられる。

宇佐八幡神の由来は甚だ特異で、「足助八幡宮縁起」によると次のような由来譚があるとされれている。中略。宇佐八幡の神格は元来鍛冶神であり、かつ、まさしく童形の神なのである。

まだたたら作業の幼稚であった時代に、火の神(日の神)の信仰を奉じて、山野に炭を焼き小鉄を探して移動した一団の人々が持ち歩き拡めたものが、金屋子信仰のいまひとつ以前のものとしての八幡信仰であったろうとことを申し添えておく。雌雄の和合は死の蘇生でもあったからして、黄金が俵に包まれてあったという九州宇佐の縁起談もまたこの金屋子信仰と無関係ではなく、隠された原始信仰の一面を物語るものであろう。

この長者の話の起源が、もし自分の想像する如く、宇佐の大神の最も古い神話であったとすれば、ここに初めて小倉の峰の菱形池の畔に、鍛冶の翁が神と顕れた理由もわかる。

八幡神について、二宮正彦氏は八幡大神宇佐神宮も起源について分類・列記しておられる。まず、固有信仰に分類される例として、兎狭国造を祖神とする氏神説、神功皇后新羅進攻に準拠する誉田別尊応神天皇)説、神功皇后を母、誉田別尊を子とする母子神説、八幡大神の顕現された遺跡を重視する巨石崇拝説、八幡大神東大寺大仏造立での神助から類推する鍛冶神説などが挙げられる。

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大蛇乃舞

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大蛇乃舞